カラカラ浴場
カラカラ帝の浴場跡にあった案内看板(想像図)
(以下は、『ローマ人の物語』第10巻p.179~182 塩野七生より)
ローマ市内にあった有名な浴場を建設順にあげると次のようになる。
「アグリッパの浴場」「ネロ浴場」「ティトス浴場」「トライアヌス浴場」「カラカラ浴場」「デキウス浴場」「ディオクレティアヌス浴場」「コンスタンティヌス浴場」
初代皇帝アウグストゥスの右腕であったアグリッパの建てた浴場以外は、すべてが皇帝が建てた浴場だ。内部の構造はどれも似たようなものだから、図を示したカラカラ浴場で代表させるとして、浴場の内と外を飾っていた美術品の質の高さと数の多さは、ローマ時代の美術館であったと言ってもよいくらいである。
「アグリッパ浴場」にある一つの彫像を気に入った皇帝ティベリウスが、どうせ庶民には傑作も理解できないだろうと皇居に移したのだが、入浴客のごうごうたる抗議でもとの場所にもどさざるをえなかったというエピソードもある。
現代のわれわれが美術館に行って鑑賞するギリシア・ローマの彫像の中で少なくない数が、これらの公衆浴場から発掘された品である。ヴァティカン美術館の至宝といわれるラオコーンの群像も、「トライアヌス浴場」を飾っていた一つだった。・・・・・
ローマの庶民たちが、これらの傑作で飾られていた「浴場」(テルマエ)を、「われら貧乏人のための宮殿」と呼んでいたのも納得がいくというものではない か。これほどの設備でありながら入場料金となると、パン一つと葡萄酒一杯の値段にしか相当しない二分の一アッシスでしかなかったのだ。しかも兵士と子ども はタダ。奴隷でも入場可能だったが、その奴隷が公務員であれば、兵役勤務者と同じく無料だった。ローマ時代にはどの街にもあったこの種の公共浴場は、長く男女混浴だったのが、ハドリアヌス帝の時代から男女別浴に変えられる。ただし、内部を男女別に分けるのはもはや不可能であったので、時間で分けることになった。家で仕事することの多い女は、午前の十時から午後の一時頃まで。日の出とともに外に出て仕事する男や学校で学ぶ子どもたちは、午後の二時から五時 まで。・・・・
だが、ローマ帝国内の都市ならば必ずあった公衆浴場も、紀元四世紀の末ともなると入場者が激減する。・・・・それまでの裸のつきあいに代わって、他人に 裸を見せることを悪とする考え方が広まったのである。キリスト教の支配が決定的になって以後のローマ帝国では、男までが腕を露わにしないために、長衣(トーガ)の下に長袖の下着をつけるようになった。
この時代、多くの人の混浴が特徴だったローマ式の大浴場はもはや生きる場は残されていない。それに、公 衆浴場には、裸体の彫刻が数多く飾られていた。キリスト教徒にとってのそれらは、邪教とされ排除すべきとなったギリシア・ローマ宗教の象徴である。破壊されるかテヴェレ河に投げ捨てられるか、幸運に恵まれたとしても忘れ去られて放って置かれた。
かつてのローマ庶民にとっての宮殿は、教会や民家の建築材料に使えそうなものすべてをはがされ、レンガの壁だけがわずかに昔の壮麗さを想像させる、巨大な遺跡に変わった。
(かくして、今や現在見るような残骸だけが残されている。浴場といっても、銭湯のような小さなものではない。現代の温泉健康ランド的なものをさらに大規模にしたようなものと言えるだろう。熱い湯、ぬるい湯、水風呂、サウナ、マッサージ室、プール、体育館、運動場、図書室まで完備していたらしい。)
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