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2019年10月10日木曜日

2019年ノーベル化学賞吉野彰ら


2019年のノーベル化学賞、リチウムイオン電池開発の吉野彰ら3人に

(以下日経産業新聞に2011621日~726日に連載された「仕事人秘録」を再構成)
電池が変える未来 旭化成名誉フェロー・吉野彰氏
*京都大学で量子有機化学を専攻し大学院に進んだ。研究内容は紫外線の照射反応などを調べる光化学で、光触媒のような材料の開発に役立てられるものだった。1960年に「サランラップ」を発売、70年代から住宅事業「へーベルハウス」を展開し、業容を拡大中だった旭化成に72年に就職する。歴史のある企業でありながら野武士的な雰囲気が気に入ったのだと思う。
同期は350人ほど。私はその中でも数名しかいない大学院卒の研究開発職だった。20代だったころの研究は失敗の連続だったが、そのつど将来に生かせる経験を身に付けることができた。そうしたなか、81年にチャンスが巡ってくる。

2000年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹・筑波大学名誉教授が80年代に発見した電気を通すプラスチック、ポリアセチレンを応用し、素材を開発する研究が始まったのだ。私は33歳。研究部門の係長になっていた。「やっと当たりくじをひけた」と直感した。
ポリアセチレンの性質を分析したところ、最も有望と感じたのは電池としての用途だった。充電することで繰り返し使用できる「2次電池」の材料に向いているのではないかと思った。80年代に入りビデオカメラなど電子機器の「ポータブル化」が新製品のキーワードになり始めていた。今と比べたらまだ大きくて不便な製品が多かったが、高電圧を発生できる電池があれば製品をもっと小型化できる。新素材を活用する好機だと思った。

高電圧を実現するには、水を電解液に使う乾電池や鉛電池だと限界がある。水の代わりに有機溶媒を使う非水系電池にする必要がある。81年当時、非水系で既に存在していたのは金属リチウム電池。ただし弱点があった。金属リチウムは1次電池、つまり「使い捨て」なのだ。金属リチウムは敏感に化学反応する。充電を繰り返す2次電池に使う場合、発火事故のリスクが大きい。私は金属リチウムの代わりにポリアセチレンを電極に使いたいと考えた。研究を進めるうちに、無水状態に置くと極めて安定する物質であることに気付いた。金属リチウムで問題になった安全性という大きな課題をクリアできる予感が高まってきた。

電池の構造を極めて単純化して説明すると、内部に負・正2つの電極があり、負極から正極へ電子を渡す。この時、逆の向きに電流が起きる。電池の性能のカギを握るのは負極。そこにポリアセチレンを使うという発想で研究を始めた。ポリアセチレンの製造工程や電解液純度を改良し、材料の性能も当初より格段に上がってきた。だが、喜ぶのはまだ早かった。いざ電池の試作となれば、正極が必要になる。ところが、ポリアセチレンの相方として使える電極材料がみつからないのだ。

研究を始めて1年たった8212月。このまま年を越すのかと気分が重かった年末のある日、午前中に職場の大掃除があり、午後はやることがなくなった。取り寄せたまま手つかずだった海外の研究文献を何となく読み始めたら、思いがけない論文と出会った。
当時、英国のオックスフォード大学で研究していた米国のジョン・グッドイナフ教授が、80年に発表した論文で「コバルト酸リチウム」というリチウムイオン含有金属酸化物が2次電池の正極になると書かれている。しかも従来の材料より高い電圧をつくれるという。続いて「組み合わせるべき適切な負極がない」と記されていた。
ひょっとしたら私が負極にしたいポリアセチレンと組み合わせられるのでないか。831月、論文に書かれていた通りのコバルト酸リチウムを実際に作ってみた。ポリアセチレンと組み合わせ電池を試作する。充電できた。放電もうまくいく。旭化成に入社して10年。待ちに待った研究の大成功だった。

こうして生まれたリチウムイオン電池だが、あくまで「原型」だった。研究を進めるうちに負極のポリアセチレンの欠点が明らかになる。ポリアセチレンは高温状態で保存する際に劣化しやすかった。おまけに比重が小さい。つまり、軽くてかさばるのだ。電池の軽量化だけが目的なら問題ない。だが、小型化を実現するには比重の小ささは致命的だった。
待ち望んだ正極にコバルト酸リチウムが見つかって喜んでいたが、今度は負極の材料探しをやり直さなければならなくなった。ポリアセチレンと同じ特徴を持つ分子構造の化合物としてカーボン(炭素材料)が思いあたる。電気を通す性質があり期待したが、当時入手できたカーボンはどれも使い物にならない。

新しい材料は社内から現れる。繊維メーカーの歴史が長い旭化成は84年、宮崎県延岡市の研究所で当時注目され始めていた炭素繊維を研究していた。ガスを気体のまま炭化させて、基板上に炭素繊維を成長させる。こうすると繊維直径が0.1ミクロンという極めて細い炭素繊維ができるのだった。
製造方法の特徴から「気相成長法炭素繊維(VGCF)」と名付けられたこの素材は、負極としてずばぬけて高い性能を示した。85年、VGCFの負極にコバルト酸リチウムの正極を組み合わせた電池を試作。充電することに成功した。研究開始から4年。やっと現在使われているものとほぼ同じ構造のリチウムイオン電池が誕生した。

90年代は携帯電話や小型ビデオカメラが出回り始めたころ。消費者向け製品を製造する大手電機が先鞭(せんべん)をつける形でリチウムイオン電池の生産が始まった。旭化成はメーカーが使う材料作りを強みとしてきた企業。エレクトロニクス関連で最終製品を製造した経験が少なかった。販売ルートもない。そこでパートナーとなる有力企業を探した。
92年、東芝と折半出資でリチウムイオン電池開発・製造のエイ・ティーバッテリー(ATB)を設立。ソニーや他の新規参入企業との間で電池の小型・軽量化を競い合うことになった。事業は思い描いていたとおりに進まなかった。旭化成は8年後の2000年に、電池材料の開発・製造に専念するため東芝にATBの全株式を引き取ってもらった。東芝も04年にリチウムイオン電池から撤退。ATBの生産設備は三洋電機が買い取った。

旭化成がATBの経営から手を引いたのはちょうどITバブルのピーク。やがてバブルがはじけ、019月の米同時多発テロを機に世界経済が減速する。リチウムイオン電池の市場も一時的に冷え込んだ。だが、電子機器の小型化・高性能化の流れは変わらず、高性能電池の需要の見通しは明るかった。
ATBを通じてリチウムイオン電池の生産を続けている間も、旭化成では材料の開発・改良を絶えず進めていた。その中で順調に伸び始めていたのが中核部品の一つであるセパレーター(絶縁材)だった。やがてこの部品が旭化成の収益拡大に貢献するようになる。

合成樹脂の膜であるセパレーターは電池内部で正極と負極を遮断するが、完全に遮断してしまうとリチウムイオンが電極間を移動できない。電池を機能させるには、非常に微細な穴を開けておかなければならない。加工が難しいが、旭化成には技術の蓄積があった。
80年代、大量の純水を使う半導体工場などで水をろ過する特殊な膜の開発を進めていた。技術を応用し、高密度ポリオレフィン微多孔膜製品「ハイポア」を開発。80年代後半から1次電池に採用されていた。90年代にはリチウムイオン2次電池用のハイポアを発売。電極間のリチウムイオン透過効率が高く、多くのメーカーが採用した。
旭化成は2000年、電池生産から撤退する一方でハイポアの生産設備を増強した。セパレーター市場で旭化成は現在まで世界シェア首位を維持する。エネルギーの変革とEVは電池の巨大な市場を生む。勝ち続けていくにはどうしたらよいか。これからも挑戦を続けるつもりだ。 2019/10/10 2:00日本経済新聞 電子版

2019年5月4日土曜日

民間ロケット打ち上げ成功


民間ロケット、3度目で打ち上げ成功…大歓声

 宇宙新興企業・インターステラテクノロジズ(北海道大樹町)が4日、同町の実験場から小型ロケット「MOMOモモ3号機」を打ち上げた。ロケットは目標としていた高度100キロ・メートルの宇宙空間に到達。民間企業が単独開発したロケットの宇宙到達は国内では初めて。

 機体は全長10メートル、重さ1・15トン。この日は午前5時45分に点火され、轟音ごうおんを響かせながら機体が空へと上がった。4分後に「宇宙空間到達」が司令所から伝えられると、打ち上げを見守った関係者から大きな歓声が上がった。
 
MOMOの打ち上げは、機体が強度不足で破損し高度20キロ・メートルで墜落した2017年の1号機、打ち上げ直後に墜落、爆発した18年の2号機と失敗が続いており、今回が3回目。当初予定していた4月30日以降、姿勢制御装置に噴射ガスを送る配管の弁に異常が見つかるトラブルや天候の影響から再三延期が繰り返されたが、ついに成功させた。読売

2019年2月16日土曜日

ご馳走とは

*華麗に加齢 
「かれい」と云っても 鰈、家令、下令、カレーなど色々あります。
華麗な加齢:
 「仕事」から解放されて気分爽快。自由時間をエンジョイし趣味に充てる。 純粋に孫の成長が楽しみ。 いっとき、恐らく「王侯貴族」気分にひたれる。

加齢で悪いこと:
不具合を感じて整形外科に罹れば第一声は「加齢」ですから・・ 
難聴気味なのですがと耳鼻科医に訴えれば、「加齢」ですから・・ 
内科、泌尿器科、歯科まで似たり寄ったり・・
それらが高じて 自己弁護に応用する。「体力落ちてきたんだよな~、記憶力も・・」「外出や人付き合いが億劫だ~」「気力、筋力、金力がなぁ~」

挙句の果ては物入り「加齢はカネかかる」 
歯科インプラント:すでに1本入れたが、近々にあと2本(30万x3);補聴器50万;鼻オペ75万(医療保険適用に感謝);眼鏡新調など。   

そして・・そろそろ「終活」か? サ高住? いやいやどうせなら「聖路加レジデンス」? 検索したら「驚天動地」。これじゃ大口「富くじ」当たらにゃきゃ現実味なし!   
そんじゃ・・田舎暮らしのスローライフ?身の丈に合う暮らし?
何のことはない・・「現状維持」に落ち着く。「堂々巡り」でした。
紫式部より山本周五郎の世界か?

2018年3月25日日曜日

高梨、歴代単独最多の通算54勝

高梨、歴代単独最多の通算54勝 W杯ジャンプ女子、平昌後4戦目
*高梨沙羅の1回目の飛躍=オーベルストドルフ(共同)
 【オーベルストドルフ(ドイツ)共同】ノルディックスキーのジャンプ女子で、平昌冬季五輪銅メダルの高梨沙羅(21)が24日、ドイツのオーベルストドルフで行われたワールドカップ(W杯)個人第14戦で今季初優勝し、ジャンプの男女を通じて歴代単独最多の通算54勝に到達した。
 高梨はW杯の個人戦通算104試合目の出場で、53勝で並んでいた男子のグレゴア・シュリーレンツァウアー(28)=オーストリア=を抜いた。昨季の最終戦から14試合足踏みが続いていたが、平昌五輪後、4戦目で節目の勝利を飾った。
 ジャンプ女子のW杯は2011~12年に始まり、今季が7シーズン目。2018325 0102分 東京

2017年9月21日木曜日

あなたのご意見やいかに?

これなしでは生きられない、絶品日本食25選
和牛。和牛は均一に満遍なく広がる霜降りが有名だ
これなしでは生きられない日本食
(CNN) 日本の技術はよく「ガラパゴス化」していると言われる。日本の文化的な孤立が世界に類を見ない革新的技術を生み出してきたためだ。
そして、日本の食べ物についても同じことが言える。
その独特の伝統、国民的な料理への執着、ほとんど宗教ともいえる新鮮さや完璧な製品へのこだわりのおかげで、日本は今や「食のワンダーランド」といえる。
今回は、いくら食べても飽きない日本の宝ともいえる日本食25品を紹介する。
とんかつ
豚肉にパン粉をまぶし、表面がキツネ色に変わり、サクサクとした歯応えになるまで油でじっくりと揚げ、最後に甘辛いソースをかける。このとんかつこそ、豚肉料理の最高峰と言えるだろう。
老舗とんかつ店「とんき」は、予約は受け付けない。そのため店の前には長い行列ができるが、山盛りの千切りキャベツとともに出されるジューシーなひれかつは、十分待つだけの価値はある。
「とんかつ まい泉」も「とんき」と甲乙付けがたい名店だ。
すし
すしは、日本が世界に送った「最も美味な贈り物」の1つであることは疑う余地がない。
その詩的ともいえるシンプルさゆえ、すしの味は食材の鮮度と板前の包丁さばきの2つで決まる。
すし種を1口ほどの大きさの酢飯にのせて握った握りずし、焼きのりで巻いた巻きずし、長方形の型に入れて押した押しずしなど、おいしいすしはどの価格帯でも見つかるが、六本木の「すし匠 まさ」のすしは、まさに究極のすしといえる。
出されるすしはどれも優美でしゃれており、各すしの食べ方も指南してくれる。客単価は約2万円と値は張るが、究極の寿司を食べるにはそれなりの出費が必要だ。
ちらし丼
ちらし丼は、新鮮な生魚のシンプルな上品さと、気軽で型にはまらない丼の特性を組み合わせた丼物の定番だ。
築地の「魚河岸千両」の自慢の一品である「海鮮ひつまぶし」は、ご飯の上に細かく切った魚介をのせ、その上にクリーミーなウニとルビー色のいくらをのせたちらし丼の一種だ。
しかし、この料理には儀式にも似た決まった食べ方がある。
まず、魚とご飯をわさび醤油と混ぜ海鮮丼として食べ、その後に漬け物と混ぜる。そして混ぜ合わせた物の大半を食べ終えたところで、だし汁をかけ、スープとして食べる。
てんぷら
てんぷらは世界で最も人気の高い日本食の1つだが、皮肉にも、てんぷら発祥の地は日本ではなくポルトガルだ。
16世紀半ばにポルトガルの宣教師や商人たちが長崎に到着した際、日本に脂っこい食べ物への嗜好(しこう)と油で揚げる料理法をもたらした。日本ではキリスト教はあまり普及していないようだが、てんぷらは瞬く間に大人気となった。
銀座の「てんぷら 近藤」の天ぷらは芸術に近い。柔らかいアスパラガス、上品な歯応えのキス、まだ真ん中がピンク色の肉付きの良いホタテなど、どれも絶品だ。
ラーメン
アジアでは、めん類の中で書籍、ブログ、映画で最も多くとりあげられるのがラーメンだ。
ラーメンの脂と塩の絶妙なコンビネーションが、脳のエンドルフィンを分泌する部分に直接強力なメッセージを送っているのは間違いない。
おすすめのラーメン屋を1つだけ挙げるのは非常に難しいが、吉祥寺にある「つけ麺 えん寺」では魚介と豚骨ベースの濃厚なつけ汁につけて食べるつけめんが食べられる。
和牛
豪華な霜降り和牛の最初の一口はまさに格別だ。
まるでバターのような、とろけるような柔らかさとうっとりするような味わいが特徴で、一度和牛を口にしたら、他のステーキは脂身が少なすぎて明らかに見劣りする。
まず霜降り肉の筋状の脂身に驚くかもしれないが、和牛は普通の牛肉に比べ、オメガ3およびオメガ6系脂肪酸をより多く含んでおり、これらの物質が心臓病のリスク軽減を助けてくれる。少なくとも、われわれはそう自分に言い聞かせている。
恵比寿にあるハンバーガー専門店「Blacows(ブラッカウズ)」では、ジューシーな黒毛和牛100%のハンバーガーが食べられる。
手打ちそば
一般に売られているそばは、大量生産されたもので、決して悪くはないが、記憶には残らない。
しかし、一度手打ちそばを口にすれば、なぜそば職人が完璧なそば作りに誇りを持っているかが容易に理解できる。
手打ちそばは冷たいざるそばでも、温かいだし汁に入れたものでも、そのやや木の実に似た風味と歯応えのある食感が病み付きになる。
麻布十番にある「松玄」は、丹念に調理された伝統的な手打ちそばをスタイリッシュかつモダンな食器に盛り付けてくれる。ぶっかけそばは、そばの周りに十数種類の薬味を添えて供される一品。
讃岐うどん
讃岐うどんブームは、多くの革命と同様に1冊の本の出版が引き金となった。
四国の特産である讃岐うどんは、長年、関西のうどん通の舌をうならせてきたが、田尾和俊氏の著書「恐るべきさぬきうどん(全5巻)」が出版されると讃岐うどんブームに火が付き、その人気は山火事のような速度で日本中に広がった。
讃岐うどんの最大の特徴は、こしが強く、それでいて絹のように滑らかな食感だ。ツルっとして、ズルズルと音を立てて食べることができ、非常に満足度が高く、硬めにゆでたパスタの歯応えと、餅のようなモチモチ感が同時に味わえる。
「讃岐うどん大使 東京麺通団」では、うどん職人たちが生地をのばして、切って、大釜でゆでる様子を見学できる。だし汁をかけた釜卵うどんに天ぷらかおでんを付けてもリーズナブルな値段で食べられる。
日本版カレーライス
インド人のシェフらは、カレーにリンゴと蜂蜜を入れると聞いたら即座に異議を唱えるだろう。
しかし、日本のカレーは長年、本場インドのカレーとは別の道をたどり、独自の料理としての地位を確立した。
通常はカレーをご飯の上にかけるか銀色の器に入れ、付け合わせに酸っぱくて歯応えのあるらっきょうの漬け物をご飯のわきに添える。
学校に通う子どもやサラリーマンからも愛されているカレーライスは、甘さと、控えめなスパイスと、心がなごむとろりとした口当たりで、今や日本で最も人気の高い料理の1つとなった。
神保町の「まんてん」は、カレーライスに目がない人たちの間で大人気だ。
ギョーザ
ギョーザは厳密には中華料理だが、東京の食生活に欠かせない大事な食べ物だ。
一口サイズでコクのあるギョーザは、通常、中に豚肉、キャベツ、ニラを混ぜた具が入っており、しょうゆと酢をブレンドしたたれを付けて食べる。
ほとんどの日本食は量が少なめなので、食べるのを止めるタイミングが分かりやすいが、ギョーザは次々と注文してしまい、つい腹がはち切れそうになるまで食べてしまう。
ギョーザの本場は栃木県の宇都宮だが、東京で味わうなら「原宿餃子楼」と三軒茶屋にある「東京餃子楼」だ。にんにくのあり、なしが選べる点が優れていて、東京でそのような店はめずらしい。
焼き芋
冬になると、東京の道は焼き芋の懐かしくて香ばしい香りで満たされ、石焼き芋屋のトラックのスピーカーから流れる哀愁を感じる声が街のあちこちで聞かれる。
焼き芋は普通、晩春になくなるが、油で揚げたサツマイモを糖蜜で覆った「大学芋」という興味深いネーミングの食べ物が、街の食料品店や、高島屋などのデパートの地下の食料品売り場(デパ地下)などで、一年中売られている。
たこ焼き
「たこ焼き」という名称は、この大阪発祥のおいしい食べ物の魅力を十分に表現しているとはいえない。
たこ焼きは外はサクサクで、たこ、紅しょうが、ネギが入った中心部はモチモチしている。ピンポン玉ほどの大きさのたこ焼きを2、3個食べるだけで一食分の満足感が得られる。
甘いソースを塗り、その上に青のりをふりかけて食べるたこ焼きは、祭りで売られる定番の食べ物で、夕方のおやつとしても人気だ。
たこ焼きが日本で最初に普及した大阪には「大阪たこ焼きミュージアム」がある。ここでは、「甲賀流」や「会津屋」といった大阪で人気のあるたこ焼き屋5店のたこ焼きの食べ比べができる。
おにぎり
おいしくて、食べ応えがあり、ドトールの1杯のコーヒーよりも安いおにぎりは、究極のファストフードだ。日本ではどこのコンビニでもおにぎりを売っているので、いつでも手の届く軽食となっている。
おにぎりの中には、タラコや葉野菜の漬け物から、マヨネーズを添えた牛焼肉まで、さまざまな具材が入っている。またデパ地下では、春の新鮮なタケノコや、秋のマツタケなど、旬の食材が入ったおにぎりも味わえる。
おにぎりはどこでも買えるが、われわれが特に好きなのは100%国産米を使用したおにぎりだ。

納豆
納豆は日本食の中でもはっきりと好き嫌いが分かれる食べ物だ。
大豆を発酵させて作る納豆は、ブルーチーズやドリアンのように、強烈な匂いと独特の味わいが特徴で、それが大好きな人もいれば大嫌いな人もいる。
アンチ納豆派は、嫌いな理由として鼻をつく匂いとネバネバした食感を挙げるが、納豆ファンにはその豊富なうま味と栄養価の高さが魅力だ。
納豆のおいしい食べ方としては、生のマグロやキムチといっしょに和えたり、餃子に入れる豚肉に混ぜてもおいしい。
それでも納豆を食べることに二の足を踏んでいる人のために、山梨県にある「納豆工房せんだい屋」は納豆が入ったおいしい焼きドーナツを開発した。
焼き鳥
冷えたビールといっしょに食べる焼き鳥は、外での軽い食事や夏の間食に最適だ。
焼き鳥は鶏のもも肉の串焼きを指すことが多いが、わさびを塗って軽くあぶった胸肉や、レバー、ハツ、ぼんじり、砂肝、かわなどの串焼きもある。
大半の焼き鳥屋は、鶏肉にしょうゆ、日本酒、みりんで作った濃厚で甘いソースをたっぷり塗るが、通は肉に塩を少々振りかけただけのものを好む。
中目黒や銀座に店舗のある焼き鳥専門店「鳥よし」で、すずめ、うずら、ちょうちんなど希少で高価な焼き鳥をじっくり味わってほしい。
お好み焼き
この油っこくて、おいしい「和風パンケーキ」は、豚バラ薄切り肉、タコ、エビ、チーズなど、さまざまな種類の食材を好きなだけ入れて、その名の通り「お好み」で自由に作ることができる。
お好み焼きは通常、自分のテーブルの鉄板焼き器の上で作る。店によっては自分で作ることもできるが、そこはプロに任せるのが正解だ。
もんじゃ焼きは、お好み焼きと似ているが、お好み焼きに比べ水分が多く、ドロドロしている。
お好み焼きを食べるなら大阪が一番だ。大阪には専門店が数多くある。大阪・道頓堀にあるお好み焼き専門店「美津の」は、三代続く老舗だ。
また東京の月島にある「おしお」は、もんじゃ焼きを初めて食べる人におすすめだ。
みそ
日本料理にみそは欠かせない。
みそは大豆を発酵させて作るペースト状の食品だ。多くのスープやソースのベースになっており、日本の各地域に独自の調理法が存在する。
東京・亀戸のみそ専門店「佐野みそ」では、甘く、滑らかな舌触りの西京みそから、色の濃い八丁みそまで、さまざまな種類のみそを試食できる。
タコライス
沖縄発祥のタコライスは、白いご飯の上にひき肉、チーズ、レタス、トマトをのせ、その上にトマトベースのサルサ(ソース)をかけた料理だ。
タコスの皮のパリパリとした食感はないが、タコスの味が日本米と見事に調和し、夏の暑い時期に最適な料理が誕生した。
1956年創業の「チャーリー多幸寿」は長年、沖縄に駐留するアメリカ人に人気の店だ。同店は、沖縄で最初のタコス専門店と言われている。
鍋は、日本の大勢で食べる食事を具現化した料理といえる。
その鍋料理の中で最も人気の高いのがおでんだ。おでんは冬の間、コンビニでも売られている。
沸騰するおでん鍋の中に入っているのは、さまざまな魚肉練り製品や豆腐を揚げた食品、中に具が詰まった食品など、粘り気、弾力性、歯応えがある食品が多い。他にも厚切り大根、こんにゃく、固ゆで卵、牛すじや、ウインナーソーセージまで入っており、すべての具材においしい昆布ベースのだし汁が染み込むまでじっくり煮込む。
東京・墨田区にある「割烹 吉葉」では、魚、肉、野菜を一緒に煮込み、最後はうどんや卵で締める高カロリーの鍋料理、ちゃんこ鍋が味わえる。
卵焼き/だし巻き卵
日本では、卵は、丼物の上にのっている半熟のスクランブルエッグやオムライス、さらにマグロユッケなどに入っている生卵など、さまざまな使われ方をする。
しかし、最も愛されている卵料理は、溶き卵に少量のだし汁を加えて作るシンプルな卵焼きだろう。
日本の弁当や、全国のコンビニで売られている手ごろな寿司には冷めた硬い卵焼きが入っているが、一流料亭の出来立てのだし巻き卵は絶品だ。絹のような滑らかさと枕のような柔らかさ、そしておいしいだしから来る深い味わいが楽しめる。
恵比寿の「うどん山長」ではそんなだし巻き卵が楽しめる。同じだし汁を使ったうどん料理もおすすめだ。
たい焼き
日本は、見た目が美しい菓子やケーキで有名だが、不思議なことに、最も有名な日本の伝統的なおやつの一つは鯛の形をしている。
たい焼きは、中にあんこ、チョコレート、クリームが入ったワッフルのような焼き菓子で、たまにチーズが入っているものもある。
100年前、本物の鯛が買えない庶民にたい焼きが紹介され、この形が定着した。
池袋西武百貨店の地下にあるたい焼き屋「味咲き」には、朝から晩まで客の長い行列ができる。
なぎの蒲焼き
うなぎの蒲焼きは、骨を取り除き、串に刺したうなぎに濃厚なしょうゆベースの甘だれをつけて焼いた料理だ。
夏に人気が出るのは滋養強壮効果のおかげとされている。我々はそれを確認できていないが、蒲焼きの強烈な香ばしさと甘さがたまらないのは間違いない。
南千住で最も古いうなぎ店の1つ「尾花」は、うなぎ通に人気だ。
お茶漬け
お茶漬けは、高級日本料理の対極に位置する非常にシンプルな食べ物だ。
作り方は、椀に白いご飯とお茶を入れ、昆布のだし汁と混ぜるだけ。普通はサケのフレーク、のり、梅干しなどをのせて食べる。気分が悪い時、二日酔いの時、気持ちが落ち込んでいる時にはお茶漬けが無性に食べたくなる。
新宿の「お茶漬けBar ZUZU」では、ヘルシーな玄米に漬けマグロなどをトッピングしたスタイリッシュなお茶漬けが味わえる。
抹茶サンデー
誰もが毎日、高級懐石料理を食べたり、正式な茶道を楽しむといったぜいたくができるわけではない。だからこそ、抹茶サンデーはありがたい存在だ。
抹茶サンデーは通常、たっぷりのあんこ、白玉、焼き米菓などが入っていて、上に抹茶アイスクリームがのっている。
京都・宇治の抹茶は極めて質が高いことから、今や宇治は抹茶の代名詞になっており、「辻利兵衛本店」や「中村藤吉」など、宇治の有名茶店は日本だけでなく世界中に支店を出している。
牛タン
焼肉で最高の部位を1つ挙げるとすれば、それは牛の舌部を薄切りにして焼いた牛タンだ。
牛タンは、牛肉の強い香りに加え、焼いた時に出る香りのいいバターのような脂と、ややかみごたえのある食感が特徴だ。
仙台は牛タンの本場であり、発祥の地とも言われる。

1930年代に、当時見習いシェフだった佐野啓四郎氏が、師事していたフランス人シェフが作ったタンシチューから着想を得て、日本人の好みに合うタンの調理法を模索した。その後、佐野氏は仙台に戻り、牛タン焼き専門店「味太助」を開業した。2016.12.30 Fri posted at 12:00 JST

さあ~て今後はどうなる?日本

世界を変えた日本の発明品25選 
世界を変えた「メード・イン・ジャパン」
(CNN) 日本は発明家の国といえるかもしれない。日本がわれわれにもたらしたのはロボットやノートパソコンや信頼性のある車だけではない。日本は大衆文化にも多大な影響を与えている。
たとえば、カラオケはいまでは世界的な人気を誇るが、誕生したのは日本だという。トヨタの「カローラ」は4000万台以上を売った世界的なベストセラーであり、ポケットに入る電卓や、世界初のハンドヘルドコンピューターも日本生まれだ。
そのほか、ゲーム機や食べ物、パズルなど、人々の生活を変えた「日本の発明品」を紹介する。

自撮り棒
自撮り棒がいつどこで誕生したかについては諸説あるが、最初に特許を取った自撮り棒(当初は「エクステンダー」と呼ばれた)は、1980年代に日本で作られた。
カラオケ
カラオケブームはいまや、世界に広がっているが、カラオケマシンは1971年、当時ドラム奏者だった井上大佑氏が、テープのプレーヤーとアンプを組み合わせることによって発明されたという。
絵文字
1990年代末に栗田穣崇(くりたしげたか)氏がiモードの携帯電話に絵文字を導入した。絵文字は当初、メッセージの送受信ではなく、簡単な天気予報やビジネス情報のために生み出された。
トヨタ・カローラ
世界のベストセラーカー、カローラは1966年に発売され、その信頼性とシンプルさで瞬く間に世界的人気を博した。カローラはいまや10代目で、販売台数は4410万台におよぶ。
インスタントラーメン
ラーメン自体は中国発祥の食べ物だと考えられているが、日本で初めてインスタントラーメンが1958年に発売され、今や国民食というより1つの文化となっている。
任天堂のゲーム機
任天堂は1889年創業。当時は花札を製造・販売していたが1970年代にビデオゲーム事業に進出し、ゲームボーイやNINTENDO64、Wiiなど数々のヒット商品を生み出した。
プレイステーション2
2000年にソニーが日本で発売したプレイステーション2は、累計1億5500万台以上の売り上げを記録した。
ソニー・ウォークマン
初代ウォークマンは1979年に発売された。世界中で人気を呼び、「ウォークマン」は携帯用テーププレーヤーの代名詞となった。
うま味
甘味、酸味、塩味、苦味に次ぐ第5の味とされ、1908年に化学者、池田菊苗氏が発見した。
四角スイカ
四角スイカは日本の高価な観賞用果物で、1978年に小野友之氏によって発明された。inRead invented by
数独
数独は、1984年に鍜治真起氏が発明したパズルゲームで、頭の体操として世界的人気を博している。
VHS
VHS(ビデオ・ホーム・システム)は、日本ビクターが1976年に開発した家庭用ビデオ規格で、同年VHSビデオデッキ第1号が発売された。VHSは当初、別の規格「ベータマックス」と競争を繰り広げた。
柔道
「柔道の父」として知られる嘉納治五郎氏は、1882年に今日われわれが知る柔道を創始した。1964年の東京オリンピックで正式競技となり、世界の競技人口は約2800万人に上る。

源氏物語
源氏物語は紫式部が11世紀に書いた日本の長編物語で、世界最古の長編小説と見る人も多い。
電気炊飯器
1955年に東芝が日本初の電気炊飯器を発売し、即座にヒット。労働者階級の繁栄のシンボルともなった。
新幹線
新幹線は最高時速300キロを超える日本の高速鉄道で、1964年に東京駅、新大阪駅間に開業した東海道新幹線が初の路線だ。
食品サンプル
20世紀初頭に日本の実業家、岩崎瀧三氏が、テーブルの上のろうそくが溶けてポタポタと落ちる様子を見て、ろうで食品サンプルを作る方法を思い付いたとされる。今ではプラスチックで作られ、日本のみならず世界中で利用されている。
ポケモン
ポケモン(ポケットモンスター)は、田尻智氏が1995年に制作したゲームソフトシリーズの名称で、アニメをはじめ、カードゲームや映画、漫画、キャラクター商品も大ヒットした。「ポケモンGO」の世界的ヒットも記憶に新しい。

LED照明
1990年代初頭に、赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏の3人の科学者が世界初の高輝度青色LED照明を開発した。消費電力の少ないLEDは、テレビや携帯端末、コンピューターのスクリーンなどに広く使われている。
ジェットスキー
日本のオートバイメーカー、カワサキが1970年代にジェットスキーを初めて商品化し、成功を収めた。
ポケット電卓
キヤノンは1970年に世界初の携帯型、電池式、印刷機能付き電卓「ポケトロニク」を発売した。
ノート型パソコン
エプソンのHC-20(海外ではHX-20)は世界初のハンドヘルドコンピューターで、1982年に発売された。
航空母艦
1922年竣工の日本海軍の航空母艦「鳳翔(ほうしょう)」は、空母の目的で建造された世界初の艦だ。
カーナビ
ホンダが1981年に発売した「エレクトロ・ジャイロケータ」は世界初の商用カーナビゲーション・システムだ。
3Dプリンター
3D印刷の世界初の試みは1980年代になされ、当時はラピッドプロトタイピング技術と呼ばれた。

2017.09.17 Sun posted at 19:58 JST 

2017年8月17日木曜日

@BarackObama

Barack Obama @BarackObama
"No one is born hating another person because of the color of his skin or his background or his religion..."
9:06 - 2017813

2017年3月18日土曜日

もの凄いおばあちゃんだ

もの凄いおばあちゃんだ
7大陸で7日連続フルマラソン、70歳女性が走破
*7大陸で7日連続のマラソンを達成したチョー・スミスさん
(CNN) 米ミズーリ州に住む70歳の女性が、世界の7大陸で7日連続して7回のマラソンを走破する記録を達成した。同州インディペンデンスでクリーニング業を営むチョー・スミスさん(70)。今年1月25日~31日にかけ、オーストラリア・パース、シンガポール、カイロ、アムステルダム、米ニューヨーク州ガーデンシティ、チリ・プンタアレナス、南極圏のキングジョージ島でマラソンに挑んだ。
毎朝起床すると26.2マイル(約42.16キロ)を走り、それから飛行機で次の大陸へ移動してまたマラソンに挑む毎日。7大陸マラソンは専門の旅行会社が企画し、スミスさんのほかにも9人が参加した。

練習には8カ月を要したというスミスさん。「最後の4カ月は相当の長距離を課し、毎週15~130マイルを走った」と語る。
初日のオーストラリアでは気温が37度を超えてかなりの日焼けを負い、2日目のシンガポールからカイロへの移動では、便が遅れてエジプト到着がレースのスタート直前になった。
「部屋へ行って着替える時間は10分しかなかった」「鍵が合わなくて10分をほぼ使い果たし、涙が出た」とスミスさんは振り返る。スミスさんはカイロでのマラソンを7時間以内に終えることを目標としていたが、旅行会社の担当者は便の遅れを理由に、6時間以内にゴールしてほしいと一行に指示。スミスさんにはハーフマラソンにすることを提案した。
しかしスミスさんは、5時間51分でフルマラソンを走り切った。「この日以来、ハーフマラソンにしろとは2度と言われなくなった」と笑う。

ベトナム生まれのスミスさんは、1972年に米国へ移り、ミズーリ州でマラソンを始めた。1年前にはタンザニアでもマラソンに挑み、翌日キリマンジャロ山をトレッキングをした経験も。「生涯を通じてクレイジーなことばかりやってきた」と自認する。
仕事で長時間働いても、走ると気分が良くなるというスミスさん。7大陸マラソンはランニング仲間の夫も支持してくれたが、一方で家族はスミスさんの健康を気遣った。それでも大好きなことをやるのだから、たとえ自分の身に何かあったとしても、挑戦する価値があると説得したという。

引退後の夢はアパラチア山脈をトレッキングすること。当面は、旅行会社が来年企画している8大陸制覇のマラソンに意欲を燃やしている。2017.03.17 Fri posted at 11:55 JST

2017年1月30日月曜日

高梨沙羅がW杯50勝

高梨沙羅がW杯50勝…85試合目、今季6勝目
*W杯通算50勝をマークし、笑顔の高梨(中央)=風間徹也撮影
 ノルディックスキーのワールドカップ(W杯)ジャンプ女子は29日、ルーマニアのルシュノフで個人第12戦(HS100メートル、K点90メートル)が行われ、今季個人総合首位の高梨沙羅(クラレ)が1回目に96メートル、2回目に最長不倒の97メートル50を飛んで合計247・3点で逆転優勝し、W杯通算50勝を達成した。

 2011年12月のリレハンメル大会(ノルウェー)に初出場してから85試合目での到達で、今季は6大会ぶりの6勝目となった。20170129 2230分 読売

2016年12月13日火曜日

大隅さん

大隅さん「家族と一緒に過ごせ、面白い経験」
*メダルを手にする大隅良典・東京工業大栄誉教授(12日午前、ストックホルムで)=代表撮影
 【ストックホルム=三井誠】ノーベル生理学・医学賞の授賞式に出席するなど、スウェーデン国内での関連行事をほぼ終えた大隅良典・東京工業大栄誉教授(71)が12日朝(日本時間12日夕)、滞在中のストックホルム市内のホテルでインタビューに応じた。

 6日にストックホルムに到着後、記念講演や晩さん会などの様々な行事をこなした大隅さんは、「(ノーベル賞は)100年続いており、ほかの賞にはない国を挙げてのイベントだと感じた」と語った。多忙な日程になったが、「孫も含めて家族と一緒に過ごせ、日本でもなかなかない面白い経験ができた」と、喜んでいた。20161212 2219分 読売

2016年12月8日木曜日

伊達直人 私の名は河村正剛

伊達直人
私の名は河村正剛、43歳…「普通の人」
*顔を公表し、初代タイガーマスクの前であいさつする河村正剛さん=東京都文京区の後楽園ホールで2016年12月7日午後8時20分、小出洋平撮影

「タイガーマスク運動」の先駆け 後楽園ホールで公表
 「伊達直人」の名でランドセルを児童養護施設などに贈る「タイガーマスク運動」の先駆けとなった男性が7日、東京・後楽園ホール(文京区)であったプロレスラー「初代タイガーマスク」の35周年記念イベントで名前や顔を公表した。男性は群馬県在住の会社員、河村正剛(まさたけ)さん(43)。「伊達直人」コールの中、河村さんは「子どもたちは抱きしめられるため、周りの人を笑顔にするために生まれてきた。この思いを胸に活動を続けていきたい」と訴えた。

 河村さんは幼少時に母と死別、ランドセルが買えず手提げ袋で小学校に通った。「自分のような経験をさせたくない」と2010年のクリスマス、前橋市の児童相談所にランドセル10個を届けた。漫画「タイガーマスク」の主人公、伊達直人の名でメッセージを添えて話題になり、運動が全国に広がった。


 河村さんはイベント後の記者会見で「顔が見える方が子どもの励みになるし、支援しているのは『ヒーロー』ではなく『普通の人』と知ってほしかった」と素性を明かした理由を語った。「施設を出た後の子どもに支援が届くようになってほしいが個人や企業、団体では限界がある。行政も巻き込みたい」と今後への意欲も新たにしていた。【鈴木敦子】毎日新聞2016127 2256

2016年11月12日土曜日

筋電義手テクノロジーのいま

最先端技術と企業努力によって義手・義足の未来は変わる!
筋電義手テクノロジーのいま
人間が筋肉を動かす時、脳からの生体信号が筋肉に届きます。筋電義肢はその生体信号をキャッチすることで動くというわけです。
しかし従来の筋電義肢では思うように扱うのは難しいとされてきました。例えば手首を欠損した人の上腕に筋電義手のセンサーを取り付けた場合、手首を「内側に曲げる、外側に反らす」を意識します。すると上腕の筋肉は反応しますから、センサーが信号をキャッチ。しかし、こうして実際に動く筋電義手は「手のひらを開く・閉じる」なのです。つまり、思うように義手を動かすというよりは、義手が動くためのパターンを理解して、それに呼応するように上腕の筋肉を動かす必要があるわけです。使いこなすためには訓練が必要であることがお分かりでしょう。

しかし、メルティンMMIというベンチャー企業が開発した筋電義手は直感的に義手を操作することが可能です。
*実際の手と同じように義手が動きます。

一般人が手に入れるには問題点が
一般人がアスリートのように、自由自在に身体を動かすためには筋電義肢が必要であること、またそのための技術的な問題はほぼクリアしていることが分かりました。
しかし、一番のネックとなるのがコスト面。いくら、技術が発展しても我々に手の届かないほど高価なものだったら意味がありません。ちなみに現在一般に普及している筋電義手は一本150万円します。

exiiiという企業が開発した筋電義手はその点問題ではありません。こちらでは、筋電義手作成のデータを公表しており、3Dプリンターさえ用いればおよそ3万円の材料費で自分専用の筋電義手が手に入ります。

筋電義肢の未来は?

このように、技術面の発展、またコストの問題も解決する手段があることが分かりました。これら二つの企業が手を取り合えば、パラリンピック出場選手以外の身体障害者の方でも自由自在に身体を動かせることが可能です。筋電義肢が身近になる未来はそう遠くないかもしれません。2016.09.23  ロボットノート

2016年10月4日火曜日

ノーベル医学生理学賞に大隅良典氏

ノーベル医学生理学賞に大隅良典氏 「オートファジー」のメカニズム解明
*ノーベル医学生理学賞を受賞した東京工業大の大隅良典栄誉教授
(CNN) スウェーデンのカロリンスカ医科大は3日、2016年のノーベル医学生理学賞を、東京工業大の大隅良典栄誉教授に贈ると発表した。
細胞組成の分解とリサイクルの基礎的なプロセスである「オートファジー」のメカニズムの発見と解明が評価された。
オートファジーの機能自体は1960年代ごろから研究者の間で知られていたものの、それがどのような仕組みで行われるのかはほとんど分かっていなかった。大隅氏は1990年代に酵母を使った実験でそのメカニズムを解明。オートファジーに不可欠な遺伝子も特定した。
オートファジーの機能障害はパーキンソン病や2型糖尿病、その他とりわけ高齢者がかかりやすい疾患の発症と関係があるとみられている。2016.10.03 Mon posted at 19:47 JST

2016年6月16日木曜日

双方に適応したイチローの偉業

似て非なる日米野球 双方に適応したイチローの偉業
 日米の数字を足した記録の値打ちをどう考えるか。イチローの日本時代の同僚で、メジャーでも活躍した田口壮・現オリックス2軍監督の考え方がヒントになりそうだ。

*パドレス戦の9回、右翼線に二塁打を放つマーリンズのイチロー外野手。メジャー記録を日米通算で抜く4257安打とした(15日、サンディエゴ)=共同
 「洋の東西で異なる野球のどちらにも適応し、安打を打ち続けたことこそ偉業」。イチローがメジャー2位の記録である「球聖」タイ・カッブの4191安打を抜いた昨年、田口氏が日経電子版に寄せたコラムの要約だ。

 田口氏によると、日米の野球は似て非なるものだ。試合数や使用球、投球の平均速度や、中継ぎ投手のレベルも違うが、最も大きな違いは野球のスタイルだという。
 日本の投手はなるべくストライクを投げずに打者をかわそうと考えるが、メジャーの投手はストライクを投げ、打者と力比べをする。同じ規則の下でプレーしていながら、野球とベースボールには別種の競技といえるほどの違いがある。

 メジャーが日本プロ野球の記録を非公式な参考記録と扱っているのも当然といえば当然で、ピート・ローズ氏が主張するように、日米の数字の合算には無理があるだろう。そのことは誰よりイチロー自身が承知している。
 しかし、それで記録の価値が損なわれるわけではない、というのが田口氏の考えだ。
 メジャーへの適応に手間どっていたら、これだけ長くプレーできたかすらわからないと同氏が指摘するように、渡米してすぐベースボールに溶け込めたことが記録への第一歩となった。

 異なる野球への対応に苦労するのは日米お互いさまで、現役大リーガーと騒がれて来日した選手がさっぱりということも少なくない。イチローの適応力と、技術に備わっていた汎用性がその壁を崩したといえるだろう。

 竹刀をサーベルに持ち替えるような異境に移ってなお、イチローはイチローであり続け、安打を放ってきた。こうした経路をたどった人は他にいない。ローズ超えをもって世界一とするかどうかはともかく、唯一無二の記録であるのは間違いない。(編集委員 篠山正幸)2016/6/16 11:40日経

追記:ユニホーム姿で臨んだ試合後の記者会見。「そんなに大きなことという感じは全くしていない」と言い切った。米国内で日米通算の記録を認めない声があることも知っている。だから、「ピート・ローズが喜んでくれていれば全然違う。でもそうじゃないって聞いているので。だから僕も興味がないっていうか。いつかアメリカだけでローズを抜く選手が出てきてほしい」。 《人間力の違いが明瞭に出ますね》

2016年6月8日水曜日

新元素名称案は「ニホニウム」

新元素名称案は「ニホニウム」 記号Nh、理研発見の113番
 
*113番元素の合成に使われた加速器=15年8月

 日本で初めて命名権を獲得した原子番号113番の新元素の名称案が「ニホニウム」であることが8日、関係者への取材で分かった。国際学会「国際純正・応用化学連合(IUPAC)」が8日夜、発表する。元素記号は「Nh」という。
 IUPACは、一般への意見公募などを経て、年末ごろに正式決定する見込み。

 森田浩介・九州大教授ら理化学研究所のチームは2004~12年、加速器の実験で113番元素を3個合成。ロシアと米国のチームと発見の優先権について争っていたが昨年12月、日本のチームに命名権が認められた。(共同) 201668 1447分 東京新聞

2016年5月10日火曜日

アドラーのことば

アルフレッド・アドラーのことば
ほんの一例です。
時代の要請なのか、「共同体感覚」の再認識か、なぜか今、注目されているオーストリア出身(1870 - 1937)の精神科医、心理学者、社会理論家。フロイトおよびユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人といわれる。 早速話題の本の図書館予約を入れましたが、なんと80人待ちでした(蔵書数8冊とあるので意外と早いか?)。

*『「よくできたね」とほめるのではない。「ありがとう、助かったよ」と感謝を伝えるのだ。
感謝される喜びを体験すれば、自ら進んで貢献を繰り返すだろう』

*他人からの賞賛や感謝など求める必要はない。
自分は世の中に貢献しているという自己満足で十分である。

*問題の原因などどうでもいい。
大切なのは解決策とこれからどうしたいかだ。

*幸せの三要素は自分自身が好きかどうか。
よい人間関係を持っているかどうか。
そして、人や社会に貢献しているかどうか。
過去を後悔しなくていい。
未来に怯えなくていい。
そんなところを見るのではなくいまこの時に集中しなさい。

*判断に迷ったらより多くの人間に貢献できる方を選べばいい。
自分よりも仲間たち仲間たちよりも社会全体。
この判断基準で大きく間違うことはまずないだろう。

*行動するたびに叱られ、褒められて育った人間は
叱られるか褒められるかしないと行動しなくなる。
「よくできたね」と褒める必要はない。
ただ「ありがとう」と感謝を伝えるだけでいい。
感謝される喜びを知れば自ら進んで周囲に貢献しようとする人間になる。

*子供にとっては家族が世界のすべてなのだ。
親に愛されなければ死ぬしかない。
だから子供たちは全力で親に愛されようとする。
そのときとった命がけの戦略がそのまま性格形成につながっていく。

2016年5月9日月曜日

中村家古書画コレクション

中村家古書画コレクション
 もう一つご紹介させてください。
ひょっとすると第50代桓武天皇【在位:天応元年43日(781430日)― 延暦25317日(80649日)】にさかのぼるお家柄の可能性がある中村家です。
「サロン中村古書画コレクション」として資料公開しています。まずは、以下の開設趣意書をご覧いただきたいと思います。 

「サロン」開 書 (HPより)
サロン――中村古書画コレクション約三〇〇点の古書画には、国宝・重文級はもちろん、極めの付せられた格別のお宝と言えるようなものはほとんど存在しない。ただ人の目に触れさせてもらえるものなら、それなりのレベルで、時には史料として、また、時には芸術として、それなりの存在意義を認められないものでもあるまい――要するに、宝の持ち腐れに陥るの愚だけは何としても忌避したかったというのが、主宰として、その主宰たるべき決断をすることにも含めた「サロン」開設の趣意である。

詳述するなら、本コレクションは、主宰自身の収集も合わせた当中村家四代およそ二〇〇年間に渉る古書画収集のすべてである。
二十三代=萬五郎政敏(神道無念流剣士中村有道軒一世――万延元年没・享年七十七歳)
二十四代=七郎右衛門正廸(中村有道軒二世――明治二十九年没・享年七十三歳)
*二十五代=重太郎(大相模村初代村長――昭和十六年没・享年七十一歳)、(銅像)
二十六代=壽馬
二十七代=穎司(本サロン主宰)が、その間の当主になる。

今日に至るまで御当地――大相模郷の開拓者としてほぼ千年に近い歴史を刻みつつある当家に、つまり、二十二代以前に床の間を飾るべき「古書画」の一幅も存在しなかったはずもなかろうが、そのこととは別に、弟子千人を抱えて、なお全国を股にかけての剣の修行を重ねることを怠らなかった二十三代の、深遠測りがたい人脈と声望とが、おのずと貴重なものの多くを身近に寄らしめていたであろうことも想像に難くない。
二十四代は、口伝によれば、幕末から維新を生きた名立ての趣味人。奢侈を誡めた当家の家風はそのまま承け継ぎながら、剣の衰退――武士にはやる瀬ない時流の捌け口として、江戸を中心とした多くの文化人との交流に、せめてもの生甲斐を見ていた由である。
二十五代は、馬鹿なことを始めおっての一言を残して、太平洋戦争勃発の翌日に他界する。明治末期から昭和前期に及んだ、大きな世界を睨んだ小さな国の、未曾有の喧噪の只中を、政治家として、また、文化人として、その世相に義理立てすることだけは全うした、人呼んでの損長さん――一面木偶のごとくにも見られた無欲の村長であった。

さて、当家は、二十六代=壽馬(昭和十四年没・享年三十四歳) 逆順の早逝といわゆる敗戦がもたらした長い混迷の時を経て、昭和三十九年、長い歴史を刻んだ旧屋の一部 (明治四十三年築=現客間) を残して全面改築 (平成元年一部増築=現母屋)、同時に、伝承の古書画も修理・修復(新装) に取り掛かることになる。前記三代の全く与り知らない、二十七代――主宰の独断による秘かな目論みのスタートであるが、爾来ほぼ四十年、本コレクションの試みにはまた、秘かに、小類聚群の形式による公開展示の目論みまでもが含ませられていたことから、主宰たるべき立場としての新たな収集は、専ら、その欠落の最低限での補填に終始した。この間、軸装・額(和)装に関する修理・修復(新装)を要したもののほとんどは、江原小林堂・江原史雄表具師(越谷市大沢四―十五―二一)の手になること、 また、同氏より、手彫りされた看板をご寄贈いただいたことを、付言しておきたい。

ところで、本「コレクション」の対象は、あくまでも軸装・額()装になる「古書画」である。その基準は、これもまた主宰の独断、つまり今日でもなおその筋の権威の揺るがない『大日本書画名家大鑑』(復刻版・第一書房刊)収録作家の作品を下限とすることが原則になる。当該書籍の刊行は昭和九年であるから、当該作家は、その時点で、既に、その作家活動に一応の評価を得ていたわけで、 したがって、少なくとも明治生まれの作家の作品を下限とすると言い換えることもできるかもしれない。

もう一つ、 展示作品の真贋についての基準は、鑑識の責を負えない主宰の立場では、にせものをにせものと知って収集するコレクターは存在しないとの常識の線からご寛容いただく外に仕方がない。もちろん、厳しい目による、然るべき教唆を拒むものでないことは言うまでもない。

最後に、本コレクションは、古書画の公開展示が建前であるとは言え、主眼とするところは、むしろ、人と人との、偶然の、ささやかな出会いがもたらす、人と人とのささやかな心の交流――そこに開かれていくはずの、人々の語らいを通した安らぎの場を供させていただくことである。サロンの名を冠せてみた所以でもある。展示空間は、当家の日常の生活空間でもあることから、この種のものとして狭小に過ぎるかとも思えるので、ぜひとも庭にまで降りていただき、その中を、その周辺を、ご自由に、お歩きいただくことも、「古書画」をご覧いただくことに合わせてのお願いとして添えておきたい。ちなみに、何の変哲もない粗野な庭ながら、昭和六十三年・越谷市指定の天然記念物――推定樹齢三〇〇年の中村家のクスノキがある。(主宰 ―― 平成十四年四月十日記)

ちなみに、当家代々は「桓武天皇」を(1)として、初代「大相模次郎能高」を(13)とすれば、本「サロン」主宰=27代「頴司」をもって(39)を数えることになる【大相模氏系図(内閣文庫蔵「諸家系図纂 (3)野与党」参照)による

――
実は中村家は遠縁の親戚(いとこの嫁ぎ先)にあたります。
先日「いとこ」が越谷に参集し、第27代現当主自らのご案内で、越谷の歴史に始まり、1000年に及ばんとする中村家歴史資料、大相模次郎能高(大相模家初代:史料が残る中村家初代)の時代考証、幕末の神道無念流名剣士第23代中村有道軒一世、および第24代同二世、第25代重太郎関係史料に加え、過去200年にわたり収集された中村家古文書コレクションのお話しを直接伺うことができました。
 膨大にして極めて貴重なコレクションは、当主の優れて綿密な時代考証、深い造詣、ご努力を経て整理され、常設展示と月替わり展示で公開されています。

史料一点をとっても、そこに連なる歴史を考えさせられ大変興味をそそられ感動ものでした。とても一度や二度の訪問ではカバーできません。何度も訪れたいと思いました。

2016年5月8日日曜日

長江家住宅  京都市指定有形文化財

長江家住宅
 京都市指定有形文化財

<長江家住宅概要>
下京区新町通綾小路通下ル船鉾町に位置し、中二階型の主屋を南北二棟持つ大型京町家。
長江家は1822(文政5)年に転居し、現在の北棟の土地に店舗兼住居を構えた。1864(元治元)年、禁門の変により当時の主屋は焼失するが、1868(慶応4)年に現在の北棟が再建され、その後1905(明治40)年に南棟が新築され、現在の姿になった。
代々呉服の卸を営んでおり、建物だけでなく明治以降の商い道具や生活用品等、貴重な品々が大切に受け継がれている。職住一体型の典型的な町家の佇まいを今に伝える数少ない京町家である。
2005(平成17)年に京都市指定有形文化財(建造物)に指定された。建物は間口7間、奥行30間、面積200坪(700平米)余。
現在は、主屋南棟や化粧部屋などを一般公開(予約制、一部非公開)している他、催事会場として、撮影や展示会、お茶会などにご利用いただいています。

*戦前頃の長江家住宅外観

長江家住宅の歴史
文政5(1822)年、長江家三代目の大坂屋伊助が袋屋町(現下京区船鉾町)に入町し、現在の主屋北棟部分35坪の土地家屋を買得しました。以後、その地で代々呉服卸商を引き継いできました。しかし、五代目の頃、元治元(1864)年、禁門の変による京都大火で家屋はすべて焼失してしまいました。
その後、慶応4(1868)年に主屋が再建(現北棟主屋)され、明治8(1875)年には、その背面裏地に大蔵が移建されます。
明治39(1906)年、六代目長江伊三郎が南隣地を取得し、同40(1907)年、同地に表屋造の主屋南棟、離れ座敷などを新築、新蔵を移建しました。その後、大正4(1915)年に、化粧部屋、浴室が新築され、現在の姿に至ります。それに伴い、職住機能の大半を南棟に移し、以降、江戸時代より86年間店舗兼住宅としていた北棟は、隠居所として利用されるようになります。現在も当時の姿を変えることなく大事に受け継いでいます。(HPより一部抜粋)(写真提供:立命館大学)

―― 
実は長江家は遠縁の親戚(いとこの嫁ぎ先)にあたります。あの歴史ある由緒正しき京都にあっての「文化財」、なんと素晴らしいことか。一方、個人での維持管理が課題になるのは大きな課題ですが。