風呂の歴史:海外編2
2)古代ローマ帝国の影響
北西ヨーロッパでは、軍の行くところ、どこでも古代ローマ型の風呂が作られた。戦士には風呂が必要というのが基本的な考え方であった。城の中に作られる風呂は一般に小さく500~1000人ほどの人が入るものだが、軍団の風呂は5000人~6000人の戦士が入るかなり大きな規模のものであった。
地中海東部のシリアでは、スポーツという概念がなかったので、古代ローマ式の風呂がもたらされても競技場は受け入れられなかった。また場所柄、熱い空間よりも冷たい空間がより重要視された。暑いこの地方にとっては、冷たい空間の方が快適であろうし、現実の問題として燃料入手の困難さもあった。
砂漠では十分量の燃料を得られないから、高い温度の浴室は小さくなる。水の供給も難しいため、水を多く使わない個人用に小さく区切られた浴槽に変わる。結果として競技場が失われ、高温室は小さくなる一方で、着替えのある部屋や冷気室が大きく立派になった風呂ができあがる。ここが社交の場となっていく。これこそが後のトルコ風呂、より正確にはイスラームの風呂となる。
イスラームの世界では、風呂はもはや記念碑的な壮大な建物ではなくなる。アラブ人は、古代ローマ式の風呂に出会うまでは水浴などほとんどしたことのなかった人々である。
イスラームの風呂では、まず着替えたり休息したりするための部屋がある。すぐに高温室に入り、マッサージ、散髪、体毛を剃ること、放血、足のたこを削り落とすこと、垢を擦り落とすことなどが行われる。ここでは湯をかけたりして、かなり蒸気も多かった。次に熱気浴室に入った後、先の着替えの部屋にもどり、そこで冷たい飲み物を飲みながら休息を取る。
イスラームの風呂では、一般に流れのない水には入らない。よどんだ水は清浄ではないというわけである。こうして風呂から浴槽がなくなる。
イランでは事情が少し異なっていた。公衆浴場をギャルマーベ(湯という意味)という。着替えと休息の部屋と浴室からなり、それぞれトイレと脱毛の部屋が付属している。浴室には大きな温水の浴槽があった。しかしこの浴槽の水は、年に3~4回しかとりかえなかったという。おそらくイランではイスラームの風呂を受け入れる前から、温水の沐浴が普及していたのであろう。
ローマ帝国の崩壊後ヨーロッパ世界から風呂が消えていった。消えていくことにキリスト教が深く関わっていた。性に対してきわめて禁欲的なキリスト教にとっては裸を見たり見せたりという入浴行為は許し難いものであり、時には男女混浴などもってのほかである。
確かにキリスト教の教会や修道院も風呂は持っていたが、それはひとつには洗礼の儀式のためであり、また清潔を保つため、また風呂に付属した広間は集会のためのものであった。決して楽しむような風呂ではなかった。
北欧や東欧においてもキリスト教の普及につれて、風呂を心地よい快楽の方向へとは向かわせなかった。
しかしキリスト教の影響を受けながらもサウナなどの風呂がとぎれることなく続いていた。
西欧でもまったく風呂がなくなったわけではなく、大きな桶を用いての入浴ならあったし、その種の温水の公衆浴場もあった。
ところが風呂はしばしば売春などの放蕩と結びつき、また姦通などのスキャンダルの温床となったりして、キリスト教の非難の的となった。さらには燃料不足や伝染病の蔓延ともあいまって、風呂のイメージは悪くなるばかりであった。
各地で公衆浴場の閉鎖令が出されるようになり、ついには中世末にはヨーロッパから風呂が消える。後は桶で顔や手を洗うという程度になってしまう。特に食事のさいに手を洗うことが重要視されたのは、風呂に入らなかったことがひとつの理由であった。
こうした庶民とは別に王族達は豪華な風呂を持っていた。例えば、ナポレオンが使ったというエリゼ宮殿の風呂はシャンデリアまでついている。
18世紀以後になって、ヨーロッパに風呂が再登場する。産業革命によって都市化が進むと同時に、都市は不潔の象徴となり病気にかかる人が多くなった。そんな中で衛生という概念が生まれ、下水道整備などの具体的な形を取り始めた。
そんな流れの中から清潔にするための風呂が見直されたのである。復活してきた風呂の一つは、ロシアの「白いバニア」である。特に1815年ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、ロシアがドイツに侵出したとき、ロシア式の風呂が作られまたたく間に広がった。これはドイツ各地からウイーンやパリにも広がっていく。
いまひとつの風呂はトルコ風呂である。特にイギリスで普及した。やはり工場の排ガスで汚れた都市の労働者のための風呂である。しかし、この二つの風呂は長く続かず、技術革新のもとにこの後いろんな形の風呂が考案された。
時代の要請は、経費も時間もかからない、簡便でそれでいて清潔さを保つ風呂ということで、ヨーロッパだけでなくアメリカでもシャワー入浴法が発展していくことになる。
コンパクトな浴室というものが定型として確立するのは1920年代に入ってからである。ホーローびき鋳鉄製のバスタブが機械生産されるようになり、バスタブの大きさが浴室の大きさを決めるという方向に発展していく。現在では、湯の出るシャワーと、湯で身体を洗う浅いバスタブ、湯の出る洗面所、そして水洗トイレが組み合わされた個室型の浴室が、世界を制覇している。(http://www6.ocn.ne.jp/~osaka268/rekisinonagare.htm)
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