風呂の歴史:海外編5
5)シベリア、ロシア、北欧の風呂
エスキモーはじめとしてアメリカ・インディアンはシベリアから移住してきた人々であり、住居もよく似ているし、風呂も熱気浴があったであろうと想像されるが、19世紀以降のシベリアの民族誌の中には風呂の記述はほとんどない。
カムチャッカ半島に住むカムチャダール族は、皮膚病などの治療のために、温泉に入っていたらしい。硫黄の臭いのする100度近い温泉のそばに穴を掘り、湯をその穴に引いて、40~50度ほどに下げて用いていた。また温泉の上に小屋を建てることもしていた。しかし、その少し西方に住むギリヤーク族は、水の中に入ったり、降ってくる雨で身体を洗ったりしている。
シベリア中央部に住むサモエード族になると、むしろ皮膚から垢を落とさないことを重要と考えていたらしい。垢や脂で寒さを防ぐことができるし、道に迷っても犬が臭いを嗅ぎつけて探し出してもらえるというわけである。サモエード族をはじめシベリア東部から西にかけて居住していた民族はほとんど風呂を知らなかったのではないかという。
古代ギリシャのヘロドトスは、紀元前5世紀頃の黒海北岸にいた非定住民スキタイ族の風呂のことにふれている。三本の棒を地面に突き刺したテント型の風呂で、赤く焼けた石をテント中央の皿の上に置き、インドアサの種子(大麻)を焼き石の上にふりかけ煙を出させ、特に葬儀の後の身を浄めるための熱気浴として利用していた。
大麻だけでなくある種の木の実や果実など他の麻薬性のものも併用し、酒を飲んだような状況で風呂に入ったようなもので、踊ったり歌ったり気分がハイになる。かつてはシベリアの諸民族はよく似た熱気浴型の風呂を持っていたと想像できるが、後に何らかの理由で消えてしまったらしい。
シベリ南部の中央アジアでの風呂はどうだろう。モンゴル族が風呂を持っていたという記録はない。後に中国式の浴槽に入るようになるが、それは宮廷文化として入ってきただけである。
さらにチベット族は風呂に入らない民族として知られている。遊牧民の世界は基本的に草原であり、豊富な燃料がなかったことがひとつの理由だろう。
フィンランドのフィン族は狩猟採集民であったが、はやくからテント型の風呂を用いていたようである。地に定住し半地下型の家に住むようになると同時に、風呂もテント型から半地下型の家の風呂へと変わっていった。それが今のサウナの起源である。
サウナが文献に現れるのは16世紀以後のことである。サウナの基本構造は丸太でできた家(半地下、地上を問わず)の一角に炉がしつらえられ、その上に石がおかれる。炉で火を焚き石を焼く。部屋には煙突や煙出しの穴はなく、煙は丸太の隙間および入口から出る。普通二段の棚があり、そこに座ったり寝そべったりして汗をかく。
十分に石が熱せられ 、火が燃え尽きると、その石に水をかけ蒸気を出す。小屋には複数の人が裸で入る。裸はあまり気にされず男女の混浴も普通のことである。汗が出てくると、春の新葉の時期に採集し乾燥させておいたシラカバの枝の束を水につけ、焼き石の上で振り蒸気をたてる。こうすることによってシラカバの枝を温め、かつ柔らかくする。この枝で身体をたたく。身体が熱くなると外に飛び出し、冷風にあたったり雪の中を転げまわったり、川に飛び込んだりする。これを何度か繰り返すのである。サウナも病気の治療に用いられるが、むしろ清潔あるいは楽しみのための機能に重きが置かれてる。
このサウナはフィンランドが世界に輸出したもののなかで最も有名なものである。サウナが後世まで普及した一因は、薪からガス 、電気へと技術的革新があったからである。
ロシアにもフィンランドのサウナと構造的に同じバニアというものがあったが、東西冷戦によりソ連内情を外に知られたくなかったことや、ガスや電気への転換が遅れたことがあったりして、世界に広まることがなかった。
スウェーデンはフィンランドと文化的によく似ていてサウナがあったが、サウナ有害説を唱えて自国でやめさせようとしたため普及しなかった。
フィンランドは逆にサウナの有効性を主張して国をあげてサウナに力を入れたのである。
(http://www6.ocn.ne.jp/~osaka268/rekisinonagare.htm)
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