2009年10月31日土曜日

10月

10月
 本年もまた10月が終わる。旧暦10月を神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼び、現在では新暦10月の別名としても用いられていることはあまねく知られる。
 一般には、出雲の出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居なくなる月の意味と言われており、出雲では神在月(かみありづき)というとのこと。

「神無月」の語源として以下のような説があるが、いずれにしても「神無」は宛字としている。
・醸成月(かみなんづき): 新穀で新酒を醸す月
・神嘗月(かんなめづき): 新嘗(にいなめ)の準備をする月
・神な月(かみなづき):「神の月」の意
・雷無月(かみなしづき):雷のない月

 10月は因縁を感じる。今年もいろいろあった、近しい人、永年の友人達を見送った。遡れば、父も、義父も、母も結局この月だった。ヒトは季節の変わり目だからという。もしかしてこの時期は出雲にいたほうがいいのかとさえ思うほどです。

2009年10月29日木曜日

松丸本舗

 10万冊を読破したという松岡正剛氏なる人物、仮に50年間として、1年365日で1日平均5.5冊となる。どんな頭脳を持った人なんだろう?どんな内容の本なのだろう?1年かかっても読了できないものもあるのにな。速読術を極めた人なのか、当然?
 そんな人物がプロデュースした新しい書店が話題になっている。以下丸善HPより。

 丸善×松岡正剛=松丸本舗
 松岡正剛氏プロデュースの丸の内本店の中の書店、
 「松丸本舗」が10月23日 松丸本舗 丸の内本店4階にオープン!

 松岡 棚板が側板より前に出ています。しかも40ミ リの厚みを持っています。これだけの大型のものがあるのはおそらく「松丸」だけだと思います。本棚が誘い、本棚がいばり、本棚が恐縮をする、そういう動詞 が本棚に生まれていくようにならないかなと思っています。そのために本棚の棚板から引き出しが出たりします。それから本棚と本棚の間に格子戸があったり。

 普通、本屋では直角に棚が組まれます。三角棚が入っています。普通は使いづらいはずなんですが、本棚にも「てにをは」が必要なんです。副詞も形容詞も動詞も 必要なんです。本のコンテンツが並ぶことはそんなに難しくはないんですが、本棚と一緒に語りかけるということはあまりしていないと思います。したがって最 初に取り組んだのが本棚のデザインでありレイアウトでした。

 ゲストの蔵書を再現する「本家」第一陣
福原義春氏、市川亀治郎氏、町田康氏、山口智子氏の書棚が揃いました。

2009年10月28日水曜日

不可能覆し青いバラ


サントリーが開発した青いバラ「アプローズ(かっさい)」=東京都港区で、武市公孝撮影

特集ワイド:不可能覆し青いバラ 最先端バイオで実現、新たな一ページ

 この世に存在しなかった「青いバラ」が最先端のバイオ技術で開発され、来月3日から生花店に並ぶ。英語で「ブルー・ローズ」は「不可能」を意味する。自然界にない色だからこそ、人間は作りたがるのか。(抜粋)【鈴木梢】毎日新聞 2009年10月28日 東京夕刊

豪州縦断ソーラーカーレース、東海大が初優勝


 これは快挙だと思います。加えて平均時速が100km超とは、テクノロジーの進歩に驚きます。

豪州縦断ソーラーカーレース、東海大が初優勝
 【シンガポール=岡崎哲】豪州大陸約3000キロを縦断するソーラーカーレース「第10回グローバル・グリーン・チャレンジ」で、東海大学チームが28日、参加37チームの先頭でゴールインした。
 1993年の初参加以来、4度目の挑戦で初優勝を果たした。
 25日に豪北部ダーウィンをスタートした今回のレースには、15か国が参加。東海大は、人工衛星用太陽電池を搭載した新型マシンを投入し、平均時速100キロ超でオランダや米国の強豪を引き離した。
 ドライバー席には、パリ・ダカールラリーを制したこともある同大OBの篠塚建次郎氏(60)ら4人が座った。チーム顧問の木村英樹・工学部電気電子工学科教授(45)は、「日本企業の高性能部品提供と不眠不休の学生の努力が結実した」と喜びを語った。
(2009年10月28日18時25分 読売新聞)

2009年10月27日火曜日

代替わり

●タリ
 永年贔屓にしてきた魚焼きの店がある。札幌を離れてからも、機会を作ってはよく寄る店だった。かつては、「焼き」専門のおばあさんが口数少なく、一級品の魚をかかりっきりで、目の前で丁寧に焼いてくれたものだ。その雰囲気と、素材の素晴らしさ、炭火の調節と抜群の焼き加減が好ましく思われる店だった。
 結構以前に代替わりしてはいたが、先日久しぶりに訪れてみた。驚いたことに客の目の前で、「新人教育」のつもりなのだろう、小言の連発。客が叱られている気分になってしまい、ウンザリした。
 さらに、いつも必ず頼む定番「ほっけ焼き」の質の低下にも幻滅、定価は高値据え置き。まあ、たまたま良い物が手に入らなかったのかも知れないが、いわゆる「有名人」のグループには何度か出くわすようになった。それも一因かと思いたくもなったが、永年贔屓にしていただけに寂しい感が否めない。諸行は常ならず? いつもながら「通し」に出てくる「ニシン漬け」のみは許容範囲だった。
 以上、恨み節でした。

2009年10月26日月曜日

月に巨大な洞穴?基地利用の期待も かぐやが「発見」

月に見つかった「洞穴」の入り口=宇宙機構提供












月に巨大な洞穴?基地利用の期待も かぐやが「発見」
 月面に洞穴の天窓のような縦穴が見つかった。月探査機「かぐや」が、月全域を高い精度で観測したことで初めて発見された。縦穴の底には、巨大な洞穴が存在している可能性が高く、将来の月基地に使えるかもしれないと期待が高まっている。
 この穴は、月の赤道付近の「マリウスの丘」と呼ばれる地域にあった。かぐやが昨年から今年にかけて撮影した写真に、直径65メートルほどの変わった穴が写っていた。普通のクレーターより壁が切り立ち、直径に比べてかなり深かった。

 宇宙航空研究開発機構が、穴にわずかに差し込む光や形状を解析したところ、穴の深さは80~90メートルで、底には幅370メートルの巨大な横穴があり そうなことがわかった。周囲はかつて火山活動が活発だったと考えられる地帯。地球の火山にあるように、表面が固まった溶岩の内部で、溶けている部分が流れ 出してできた洞穴と見られるという。

 月は、大気のある地球と違って、絶えず宇宙放射線や隕石(いんせき)の危険にさらされ、昼夜の温度差も大きい。宇宙機構の春山純一助教は「これらの問題を解決できる地下は基地には最適だ」としている。
(東山正宜) 2009年10月25日20時0分 朝日

2009年10月24日土曜日

栄枯盛衰

栄枯盛衰
 20年前、日本航空の社員は自身が保有するJAL株500株を売って、夫婦で世界一周旅行に出かけた。
 昨今、JAL社員は保有する500株を売って、夫婦で東京一周はとバス観光ツアーに出かける。

共通点
 バーナンキFRB議長が「不況終了」を宣言した。
 テレビキャスターがコメントした。
 「これは、ブッシュ大統領がイラク戦争で『任務完了』(mission accomplished)を宣言したのと同じです」

You liar!
 オバマ大統領が国民皆保険制度の演説途中、野党議員から「うそつき」と野次を飛ばされた。
 テレビキャスターがコメントした。
 「米国大統領が議員から『うそつき』呼ばわりされたのは、クリントン元大統領が帰宅後、『竜巻に遭ってパンツをなくした』と釈明し、ヒラリー前上院議員に『うそつき』とどなられて以来です」

2009年10月22日木曜日

秋の風情

秋の風情

秋晴れ 
運動会の万国旗 運動会のBGM
紅葉 枯れ葉 ススキ 月見
菊人形
銀杏 どんぐり どんぐりゴマ

赤トンボ 夕焼け
実りの秋 食欲の秋 天高く馬肥ゆる秋
果物 梨 柿 ぶどう 栗 イガ栗
落ち葉焚き 焼きいも さんまの塩焼き
夜長 読書の秋

2009年10月16日金曜日

富山観光補遺

 T先生より、さらなる情報提供を頂きましたので、以下引用します。

 富山は結構祭りが保存されています。いわゆる京都祇園祭り、高山祭りのような山車のでるものが少なくても5-6カ所あり、なかにはぶつかり合うようなけんか祭りもあります。夜には山車が提灯で覆われるものがあります。

 その他に、夜高(よたか)と呼ばれるねぶたに似た行燈山車タイプの祭りもあり、これもぶつかり合うものがあります。多くは高岡や砺波、氷見の方で5月頃に集中しますが、能登になると形が少し違ってきます。
 また、獅子舞も極めて盛んで、街の町内会毎に違った舞をいたるところで披露します。これは稲刈り前9月頃(あるいは春)にあります。

本日の札幌大通り公園






札幌時計台



札幌時計台
 建物自体は、旧札幌農学校(北海道大学の前身)の演舞場として、W.S.クラーク博士に続く第2代の教頭W.ホイラーの構想により、明治11年10月16日に建設された。
時計塔はホイラーの帰国後教頭となったD.P.ペンハローが計画、同14年に付設され、以後「時計台」の名で親しまれている。
 したがって、明治10年に帰国したクラーク博士はこの建物を見ることはなかったが、帰国に先立ち演舞場の原形とも云える「武芸練習場」の設置を開拓使に要請しており、これが演舞場(屋内体育館)の建設につながった。

 建物は、アメリカ中・西部開拓地の、バルーンフレーム構法といわれる木造建築構造様式を取り入れた飾りの少ない簡素な実用建築で、わが国ではほとんど類例のない建造物である。

 時計塔には、米国ボストン市のハワード時計会社製作の自打重錘振子式四面時計(製造番号738)が設置され、明治14年8月12日の運転開始から当時の姿のまま、時を刻み、鐘を鳴らし続けている。(主にパンフよりレジメ)

1970年、国の重要文化財に指定された。

2009年10月15日木曜日

松川遊覧補遺

松川遊覧補遺
 富山市在住7-8年になる大学のT先生にこの話をしたら、今の時期にやってるの?と驚いていた。春の花見のころになると、両岸にある樹齢何十年かの桜の木460本が見事で、貴族の舟遊びの感覚になるらしい。名誉のために追記しておきます。

 東京―富山間は毎日6便(往復12便)あるようだ。結構搭乗率は高い。驚いたのは、富山―札幌間も飛んでいて、実を言うと初めて、この便を利用して札幌に来た。ボーイング767の270人乗りが、ほぼ満席だった。もっともこれは1日1便。 いずれもANA。

 聞けば最近周辺を合併し、富山市の人口は120万人を数えると云う(by taxi driver)。

2009年10月14日水曜日

富山観光2

富山観光2
 いまや3セクで頑張っているライトレールに乗って、岩瀬浜へ。ゆっくり町を散策/ぶらぶら歩き。

北前船回船問屋・森家
 ここからコメを運び高値でさばき、蝦夷地?からは二束三文で買い付けたニシン・昆布を運び巨額の財をなした。何でも一航海一隻今の価値換算で一億円の儲けがあったそうな。十隻持っていたとか。
 間口の長さで課税されたので(全く蛇足ながら、オランダはアムステルダムもそうだった)、奥行きのある造りで、隣と軒を連ねていた。一番奥は庭と倉庫があり、船着場が隣接していたそうだ。


番頭気分?よしよし、今日も10億の大儲けじゃわい








ガイドをしてくれた楽しいおやじさん









       富山港展望台から・ロシアに輸出される中古車


匿名 tyam さんは書きました...

そろばん持つ番頭さんに笑み浮かび、思わず書き込みです。幸せそうな良い笑顔ですねぇー。
これまでの人生、そろばん勘定ぴったし?、あまり沢山?
私は夫にこのような幸せ笑顔あげられているかとちょっぴり反省しました。

2009/10/15 10:11

富山観光

街中散歩から

松川遊覧(2度目は遠慮?)
 片道にすれば15分程度の、一応遊覧船による歴史散歩であるが\1500は高すぎ






富山城?(郷土博物館)
 現在、城址公園には堀や石垣の一部が残り、富山城の存在を偲ばせるが、その姿、歴史は不明である。

 天文12年(1543)、神保長職(ながもと)によって富山城は築かれた。しかし、築城以来、様々な勢力の争奪の場となった(一向一揆勢、上杉謙信、武田信玄ら戦国武将たちの攻防、織田信長家臣として入城した佐々成政)。天正13年(1585)年には、豊臣秀吉の征討をうけ破却された。

 近世になって前田利長が整備したが、大火で焼失したのち、元和元年(1615)一国一城令により一旦廃城となる。寛永16年(1639)富山藩分藩により、初代藩主前田利次が入城する。その後、明治時代に至るまで、富山前田家13代の居城となる。

 現在、富山城址においては発掘調査が進められている。地下に眠る富山城の情報、新たな関連資料の発見などが期待される。
(パンフよりレジメ)

2009年10月13日火曜日

富山にやってきた

富山にやってきた
 ANAが飛んでいるが、どのみち空いててガラガラだろうとの推測は、大外れ。昼前の便は満席。午後便もほとんど満席だった。
 もっとも乗った午後便はA320 と云う160人乗り程度の小型ジェットではあった。

2009年10月11日日曜日

秋の匂い

秋の匂い

秋の匂いがある

金木犀の匂い
落ち葉の匂い 
干し草の匂い

果物の匂い
稲刈りの匂い
落ち葉焚きの匂い  

風景の匂い
匂いで感じる季節がある 
匂いで蘇る過去がある

そして四季を感じることの喜び

2009年10月10日土曜日

ノーベル平和賞

ノーベル平和賞
 もちろんほとんどは万人を納得させる人選/団体なのでしょうが、こと対象が政治家となると、印象深いものがありそうです。いくつかをピックアップしてみました。その後の評価は?

1974年 - 佐藤栄作、ショーン・マクブライド
1994年 - ヤーセル・アラファート、シモン・ペレス、イツハク・ラビン
2000年 - 金大中

2002年 - ジミー・カーター
2007年 - アル・ゴア、IPCC
2009年 - バラク・フセイン・オバマ・ジュニア

運動会の季節

運動会の季節
 秋は運動会の季節である。この辺りには、幼稚園、小学校、中学校、高校とそろっている。運動会で見ていて楽しいのは、何と云っても小学校までだろう。中学生以上になると、もう「アスリート」レベルの戦いになってくる。
 運動会といえば、万国旗、玉入れ、借り物競走、騎馬戦、棒倒し、紅白の戦い、そして家族と一緒のお昼の時間だった。普段見たこともない豪華なお弁当、バナナ、山盛りの栗、梨、柿、ブドウなどの果物も思い出す。

 小学校2年生の頃だったかな、50m徒競争で最初にして最後?の入賞を果たした。そして、1、2,3と大きく書かれた旗の前に並んだ記憶がある。多分3のところだったろう。徒競争も一通り終わると、そこに並んだ生徒たちは、本部席に行って賞品をもらった。ノートか鉛筆1本か、ささやかなものだったと思うが、そこには実に誇らしい自分があった。

 その後、先生の発案だろうが、事前タイムトライアルのようなものを取り入れた。体操の時間に練習と称してタイムを計り、それをベースに、本番での組み分けを決定した。小学校低学年でも知恵者はいるもので、どこかでこのことを嗅ぎつけてきた連中は、トライアルでは実力を温存しながら走って、自分が勝てる組みに分類されていた。
 融通のきかないボクは、トライアルも全力疾走し、その後は誇らしい旗の前に並ぶチャンスはなくなった。タイムトライアルのことはずっと後から知ったのでした。

 あの時の要領の良い連中はどうなったのだろう。植木等の「スーダラ節」人生を歩んだのかな。今にして改めて気になってきた。こういう知恵者は居ていいと思うし、先生も、例えこのような形でも、知恵者を生み出す教育をしたほうがいいのではないかとさえ思う。
 半世紀以上前の話にお付き合い下さり、ありがとうございます。

2009年10月8日木曜日

My first trip

My first trip
 わたくしは、生後6か月目にして初めて大きな旅行をしました。ANAの飛行機に乗り、羽田からの快適なフライト、函館に行きました。もちろん、お父さんお母さんと一緒です。 (photo by K & M)
 
函館山からの夜景が見事でした。
 






駒ケ岳がきれいに見えました。

 







おちゃめでしょう!こんな遊びができるようになりました。
 








                    帰りはパパの膝の上、疲れたよ!

2009年10月7日水曜日

太陽系「惑星X」発見するぞ!探査計画始動


太陽系「惑星X」発見するぞ!探査計画始動

 神戸大の研究チームが存在を予測した太陽系の果てを回る「惑星X」の探査計画が、今秋から国内外2か所の天文台で本格的に動き出した。

 実際に見つかれば天文学史に残る大発見となるだけに、観測にかかわる日本人研究者らは「日本発の仮説を我々の手で証明したい」と意気込んでいる。

 惑星Xは、海王星の外側を約1000年周期で回る太陽系9番目の惑星として、神戸大の向井正名誉教授と、研究員だったブラジル出身のパトリック・ソフィア・リカフィカさん(現近畿大助教)が理論計算で存在の可能性を導き出し、昨年2月に発表した。大きさは地球に匹敵するという。

 しかし、詳しい軌道や位置は不明で、明るさも14~20等級とされ、非常に暗いため、見つけるには広い範囲を探す必要がある。そこで東京大の木曽観測所(長野県)のシュミット望遠鏡と、米ハワイ州マウイ島に建造された望遠鏡「PS1」を用いた観測が始まった。

 シュミットは、一度に広い範囲の天体写真を撮影できる国内最高性能の望遠鏡。神戸大の伊藤洋一准教授らが9月20~29日に最初の観測を実施。今後も3か月ごとに約10日間ずつの集中観測を行う。伊藤准教授は「欧米中心だった惑星探索の歴史に新たな1ページを加えたい」と力を込める。

 PS1は、約1か月でハワイから見える24等級までの全天体をくまなく観測できる。本来の目的は、地球に衝突する恐れのある天体の発見だが、移動天体を調べる過程で惑星Xが見つかる可能性も高い。今春から試験観測をしており、近く本格運用を始める予定だ。

 研究チームによると、惑星Xは明るい銀河に隠れる位置にある場合を除けば、5年以内に見つかる可能性が高いという。
(2009年10月5日19時31分 読売新聞)

2009年10月3日土曜日

Lasker awards

 日本のメディアは、なかなか全体を知らせてくれないので、米メディアの例を引いてみました。さらに各人のインタビュービデオがつきますが、ここではカットしました。

Leukemia, stem cell scientists, N.Y. mayor get Lasker Awards

 One of the most prestigious prizes in medicine is being awarded this year to scientists working on stem cells and leukemia — and to New York's mayor for his fight to cut tobacco use.
 The Lasker Awards, which are announced today, have been given since 1945. They recognize the contributions of scientists, physicians and public servants internationally working to cure, treat and prevent disease.
 "It's right up there with the Nobel Prize," says Gary Sieck, a research director at the Mayo Clinic, Rochester, Minn. "The people who get it are at the top."

 The Lasker-DeBakey Clinical Medical Research Award goes to three scientists whose turned a fatal cancer, myeloid leukemia, into a manageable condition with their discovery of the drug Gleevec (imatinib mesylate).
 Brian Druker, 54, of Oregon Health & Science University, Nicholas Lydon, 52, formerly of the Novartis pharmaceutical company, and Charles Sawyers, 50, of Memorial Sloan-Kettering Cancer Center did the work in the 1990s. The drug inhibits the protein made by an abnormal gene that causes this form of leukemia. Further research was able to stop resistance to the drug in some patients.

 When the first results of preliminary tests came in, in 1999, "almost everyone had some form of response, either a complete or partial remission. In a Phase 1 study you never see that," says Sawyers. "Now it seems like such a logical approach, but at the time it had never been done."


 Being awarded the prize is "an incredible badge of respect and honor," he says.
 The Lasker Basic Medical Research Award goes to John Gurdon, 76, of Cambridge University and Shinya Yamanaka, 47, of Kyoto University and San Francisco's Gladstone Institute of Cardiovascular Disease. Their work has helped pave the way for the possibility of made-to-order stem cell treatments for individual patients.

 Gurdon began working with frog eggs in the 1950s and was the first to successfully clone a frog, in the 1960s. This led directly to the cloning of mammals in the 1990s.
 Yamanaka's ground-breaking announcement in 2006 that he had successfully reprogrammed a mouse skin cell to turn into stem cells holds promise for creating stem cells without destroying an embryo, up until now a major ethical and legal hurdle.


 The Mary Woodard Lasker Public Service Award goes to New York Mayor Michael Bloomberg, 67, who waged an effective campaign to get people in his city to stop smoking and start eating better.


The Lasker Awards come with a prize of $250,000 in each category. They are sometimes called "America's Nobels," in part because 76 Lasker laureates have gone on to receive the Nobel Prize.

Updated 9/14/2009 12:58 PM  USA TODAY  By Elizabeth Weise

習作川柳再び

習作川柳再び

週末だ 今日こそ届くか デジフォト孫の顔

孫一週間 成長ぶりに 目を見張る


ツーショット アップが苦しい 孫との違い

アブラ切れ オレの関節 そこらじゅう

腹の中 オレのは白いぞ アブラでいっぱい

2009年10月2日金曜日

樹上生活から二足歩行へ進化の途上…最古の人骨

樹上生活から二足歩行へ進化の途上…最古の人骨
 約440万年前に生きていた女性「アルディ」の全身骨格を、東京大などの国際チームがエチオピアで発見した。
 樹上で長い時間を過ごし、二足歩行へ進化する途上だった、私たちの遠い祖先の暮らしぶりが浮かび上がってきた。
 アルディは、約120個の断片的な骨などから復元された。足の骨からは、指で枝をつかんで木々を移動する能力があったことがわかる。手は長く、樹 上で動き回るのに使ったものとみられる。歯の特徴からは、果実のほか、小動物、植物の地下茎なども食べる雑食だった可能性がうかがえる。研究チームは、約 15万個に上る動植物の化石も収集し、アルディが森林に住んでいたことを突き止めた。
 人類化石が乏しかった20世紀初めまでは、「脳の大型化こそが人類進化の原動力」との考えが定着していた。しかし、その後に相次ぎ発見された化石は、まず二足歩行が進化し、脳の大型化は後で進んだことを明らかにしてきた。
 そして今回、樹上から地上へと生活の拠点を移し始めた人類が、とうとう姿を現した。東京大の諏訪元教授は「今回の発見を出発点にして、人類の起源に迫る研究は新しい段階に入る」と意義を話している。
(2009年10月2日02時13分 読売新聞)

440万年前、最古の人類全身骨格を発見

440万年前、最古の人類全身骨格を発見

         約440万年前の最古の人類骨格(サイエンス誌提供)

 アフリカ東部のエチオピアで、約440万年前の猿人(初期人類)の全身にわたる化石を、米カリフォルニア大学や東京大学などの国際チームが発見した。
 全身骨格の化石としては最古で、従来の記録を100万年以上さかのぼり、700万年前とされる人類の起源に迫る第一級の資料。2日付の米科学誌サイエンスで、計11本の論文による異例の特集で紹介される。
 この化石は「アルディピテクス・ラミダス」(ラミダス猿人)という種類の人類。東大の諏訪元(げん)教授が1992年に歯を発見し、その後、ほぼ全身の骨の発掘に成功した。
 身長1メートル20、体重50キロ程度の成人女性とみられる。「アルディ」と愛称が付けられた。
 アルディは、二足歩行に適した形の骨盤と、二足歩行には非効率的な、土踏まずのない足を併せ持つ。全身骨格の発見で、樹上から地上へ生活の場を移す中間段階の人類の姿が、初めて確かめられた。脳容量は、チンパンジー並みの300cc余りだった。
 全身骨格は従来、エチオピアで74年に発見された「ルーシー」が最古で、約320万年前だった。部分的な化石は、チャドで約700万~600万年前の頭骨化石が見つかっている。
(2009年10月1日23時47分 読売新聞)

2009年10月1日木曜日

万国共通6

戦争という名の殺人 
 万国共通シリーズも5回で止めるつもりでいたのだが、もう一つだけ触れておかなければいけない問題があった。課題が大きすぎて、キーワードを示すにとどまる。
 正当防衛以外個人レベルでヒトを殺めることは厳しく糾弾される。日本でも裁判員制度が導入され、この手の裁きに責任を持つことは悩ましい。間接的にせよ加担することになるわけだから・・・。

 すべての殺人が殺人罪とされるわけではない。例えば、刑務として行う殺人(死刑)、公務として行う殺人(治安機関による検挙時の犯罪者射殺、政府が指揮し、防衛軍事機関が行う戦争行為)、正当防衛などやむをえない事情による殺人などである・・・とされる。たしかにねえ・・・。そうは云ってもやはりねえ・・・。

 国防、正当防衛、自己防衛の名の下に国家が奨励する殺人は、世界中で絶えることなく続いている。戦争における殺人を一般の刑法で治めることは不適当として、一般に軍法が適用される。一部は戦争犯罪として国際的に罰せられる可能性がある。国際法が根拠とされることが多いが、しばしば法的根拠を欠く場合があったり、国家間の政治的駆け引きの要素が強いので注意が必要である。後述するように“東京裁判”が一例である。

 また、国家元首や政府の高官など権力を持つ者が自国民を大勢殺害した場合、その国の法律では調査・訴追・公正な裁判を行うことが極めて困難である。そのため国際刑事裁判所が設けられた。一方で、一部の国はこの枠組みに参加しておらず、更にアメリカ合衆国は参加しないだけでなく、アメリカ国民を国際刑事裁判所に引き渡さないことを約する免責協定を結ぶよう各国に要請するなど、その趣旨に自国民を加えることに反対している。このため、その実効性を疑問視する声もある。日本も長らくこの枠組みに参加しなかったが、国内法の整備が整い平成19年(2007年)7月17日、国際刑事裁判所ローマ規程を批准した。

ラダ・ビノード・パール判事
 勝者による敗者の裁判・東京裁判での、被告人全員の無罪を主張したインド人判事 ラダ・ビノード・パール(英語:Radhabinod Pal)の存在がある。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB

 極東国際軍事裁判(東京裁判)において判事を務め、同裁判の11人の判事の中で唯一、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)の作成者として知られている。
 パールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。“裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”という判断によるものである。
 パール判決書は、裁判官として「東京裁判において、日本を裁く法的地位は存在しない」他、日本を裁く法的根拠は無いという判断であり、パールの主観的な道義的判断や政治的、宗教的思想を主題とした物ではない。

 パールの「公平さ」を訴える考え方にオランダからのベルト・レーリンク判事も共感し、その影響を受けるようになっていった。また自らの個別意見書の発表も、パールが「反対意見」を公表すると主張した副産物であったとした。
 しかし、パール判決は、当時のインド政府の意思と一致していたわけではなく、あくまで個人の信念を貫いた物である。ネルー首相(当時)は、当初から東京裁判で、自己を曲げないパールに困惑しており、パール意見書に対しても非公式ではあるが「パールの意見書はあくまで一判事の個人的見解であり、インド政府としては同意できない箇所が多々ある」と不快感を示した。
 しかし、2006年12月14日、来日したマンモハン・シン首 相は日本の衆議院の国会演説で「戦後、ラダ・ビノード・パール判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。こうした出来事 は、我々の友情の深さと、歴史を通じて、危機に際してお互いに助け合ってきた事実を反映するものです」と公式に好意的な意見を述べている。

 その後の東京裁判の評価についての記載が、(http://www6.plala.or.jp/mwmw/kotoba.html)にある。

 マッカーサー創るところの「極東国際軍事裁判所条例」に基づき、いわゆるA級戦犯28人が起訴されたのは昭和21年4月29日(昭和天皇 の誕生日)、最後の「刑の宣告」が行われたのが11月12日であった。
 東條元首相以下7人(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井岩根、武藤章)が処刑されたのは12月23日(現天皇の誕生日)であった。つまり東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴し、当時皇太子であった今上天皇の誕生日を期して処断したのである。この一事をもってしても、いかに執念深い復讐のための裁判だったかがわかろう。

 だが、東京裁判が終わって2年後の昭和25年10月15日マッカーサーは、ウェーキ島においてトルーマン大統領に「東京裁判は誤りであった」旨を告白し て、すでにこの裁判の失敗を認めている。その翌年の5月3日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で「日本が第二次大戦に赴いた目的は、そのほとんどが安全保障のためであった」と、東京裁判で裁いた日本の侵略戦争論を全面的に否定しているのである。

 のちに、「この裁判の原告は文明である」と大見得を切ったキーナン主席検事も、あの傲慢なウエッブ裁判長も、この裁判は法に準拠しない間違った裁判で あったことを認める発言をしている。現在名ある世界の国際法学者で、東京裁判をまともに認める学者など一人もいない。パール判事の立論こそが正論であるとし、パールの名声は国際的に高まった。

 我が国は60有余年直接的な戦争に巻き込まれていない。案外賢い国なのかも知れない。
 アフリカのどこかの国の大統領が、国家レベルの喧嘩を「ボクシング」で決着しようと提案したニュースがあったような記憶がある。結構正しい判断なのかも知れない???
 日本なら「相撲」か?でもモンゴルなどとは勝負できない?