風呂の歴史:海外編1
行き掛り上、次には世界各地の風呂の歴史を見ることにします。(以下、http://www6.ocn.ne.jp/~osaka268/rekisinonagare.htm より)
1)メソポタミア、古代ギリシャ、ローマの風呂
*メソポタミアの風呂
紀元前4000年末頃の都市ウルクの神殿群の中に給排水施設を持った沐浴室が見つかっています。沐浴室は「浄め」のために用いられたと考えられています。
紀元前3000年頃のエシュヌンナ宮殿では、沐浴室が5カ所見つかっていますが、そのうちひとつはトイレと併設されている。これは「浄め」というよりももっと実用的なものであり、王の私的なバス・トイレであろう。
紀元前1800~1450年頃のクレタ島のクノッソス宮殿女王の部屋では、立派なテラコッタ製の浴槽を備え、排水施設も設けられ、隣の部屋に水洗のトイレが作られていた。この浴槽ではたぶん温水も用いられていたと考えられる。この形の風呂が後にアメリカで大発展する現代のバス・トイレの原形であるという点で注目される。
*古代ギリシャでは二つの系譜の風呂が見られる。
①ひとつは、浴槽を用いた個人用の風呂である。これをバラネイオンという。紀元前7世紀頃の上流階級の人々は温かい湯を使う風呂に入っていた。この風呂は少し変わった形をしていて、浴槽の3分の1が座る部分で、足のところに浅い穴がつくられている。
浴槽に腰掛けた人に、他の人が湯を注ぐというタイプの風呂で、むしろ一種のシャワーみたいなものである。赤ん坊のベビーカーの車を取ったような形を想像してみてください。
この風呂は初期の頃は女性用のものであった。後に公共用の風呂が現れこのバラネイオンの形のものが使われた。
②男性は別のタイプのギムナシウムの風呂を用いていた。ギムナシウムとは教育と体育の施設であった。
競争のためのトラックとレスリングなどを行う砂で覆われていた競技場、それに付随した水泳用のプールなどからなっていた。
競技場の周りの建物には小部屋があり、それらは着替えの部屋やオイルを塗る部屋、ボクシングをする部屋、さらに討論する部屋や講義室、図書室などからなっていた。そして水浴するための部屋があった。
水が引かれ上部から水が出るようになっている。まさにシャワーそのものである。シャワーの起源がここにあったのです。
*古代ローマの浴場
ギリシャの影響を受けて発達する。バルネアとテルマエといわれる2種類がある。
バルネアは紀元前5世紀から前1世紀の間に、ギリシャのバラネイオンの形やギムナシウムの風呂から競技場や水浴場の痕跡が消え、オイルや飲食品を売る店が増えたり、床下暖房や壁暖房が始まったり、個人用の浴槽がなくなり大きな共用の浴槽が出現して、ローマ風の浴場バルネアとして完成された形になった。
古代ローマの風呂は基本的には、冷ー暖ー熱ー暖ー冷と徐々に温めていき、また徐々に冷やしていく方法をとっている。人々はまず着替えの部屋に入って裸になり(腰布をつけることもある)、木製のサンダルを履き、油の容器や洗う道具を持って冷気室に入る。
次に暖温室に入りここで身体を洗ったりオイルをつけたりする。そして高温室に入る。ここは約50度の温度であったと推定されている。この部屋には約40度の湯の入った大きな浴槽がありこれにも浸かる。
また冷水を入れた水盤が立っていて、この水で浴槽に入る前に身体を洗った。
高温室では常時浴槽から湯が流れ出て床を濡らし、湿度は80%ほどであったろうといわれている。
高温室と暖温室の間に熱気浴室があるが、80度ほどの熱さがあり十分に汗をかいたであろうと思われる。その後暖温室に戻り、またオイルをつける。
我々日本人には風呂上がりにオイルをつけることになじみはないが、乾燥地では必須のことである。暖温室を出て冷気室に戻って熱い身体を冷ます。ここにある冷水の浴槽が後に水泳用の大きなプールに変わるのである。
紀元前1世紀の末に、バルネアから発展したテルマエといわれるものが出現する。
テルマエのもっとも古いものは古代ローマに建てられたアグリッパ大浴場である。長さ100~120メートル、幅80~100メートルほどの大きさで何度も改修されながら5世紀まで利用され続けた。
次に紀元後64年に完成したのがアグリッパよりもさらに大きいネロの大浴場である。建築技術も発展しガラスも用いられるようになった。このネロの浴場は以後の浴場の基本モデルになったのである。
3世紀になって有名なカラカラの大浴場が現れる。この大浴場は12万平方メートルの広さを持ち、一度に1600人が入浴できたといわれている。アレキサンダーの息子の名前カラカラにちなんで名づけられたものである。
4世紀にはさらに大きなディオクレティアスの大浴場が作られている。これらの浴場では、風呂に入ってくつろぐだけでなくボクシングやボール・ゲーム、レスリング、重量挙げなどのスポーツもでき、劇場や図書館も配置され、さらに周りに多くの飲食店が建てられていた。大ホールが作られ集会がもたれ、政治的な討論なども行われるようになる。
時の権力者の肖像や神話上の彫刻も飾られ一大アート・センターの趣があった。浴場は単なる風呂から一大文化センターへと変貌したのである。
古代ローマの大水道は有名だが、1日8500万~3億1700万ガロンの40%は公共の建物や噴水、風呂にまわされていたというから、風呂文化の極地ともいうべき感がある。
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