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2019年3月30日土曜日

バンクシ-の絵


バンクシ-の絵が話題に 英議会そっくり?
イギリスのEU=ヨーロッパ連合からの離脱をめぐり混迷が続く中、覆面アーティスト「バンクシー」が10年前、チンパンジーを議員になぞらえて描いた作品が「今のイギリス議会そのものだ」と話題になっています。
*
「退化した議会」と名付けられたこの作品は、社会風刺画で知られる正体不明のアーティスト、バンクシーが2009年に制作し、28日、イギリス南西部ブリストルの美術館で展示が始まりました。

巨大なキャンバスに描かれているのは、イギリス議会そっくりの場所に集まったチンパンジーの姿です。議員になぞらえて描かれているチンパンジーたちは席から身を乗り出して激しく議論したり、やじを飛ばしたりしているほか、議長が見守る中、口をつぐんでいるチンパンジーもいます。
美術館が10年ぶりに作品を展示したところ、EU離脱をめぐり混迷を深めるイギリス議会そっくりだとして話題になっています。
作品を見た人は「10年も前の作品なのにEU離脱の議論が続く今の政治を予言して描いたかのようだ」と驚いた様子で話していました。
バンクシーはインスタグラムに作品の写真とともに「ブリストルの美術館は離脱の日を記念して、作品を再び展示することにした」というコメントを投稿し、当初、29日に予定されていたEUからの離脱に合わせたかのように作品が展示されたことを皮肉をもって伝えています。2019330 618 NHK

2017年1月4日水曜日

平安装束で手合わせ披露

京都の八坂神社でかるた始め式 平安装束で手合わせ披露
 京都市東山区の八坂神社で3日、華やかな平安装束に身を包んだ男女が手合わせを披露する新春恒例の「かるた始め式」が行われた。
 
*京都・八坂神社の「かるた始め式」で、平安装束に身を包み手合わせを披露する女性ら=3日午後
 袿に緋ばかま姿の8~25歳の女性ら12人が、能舞台で向かい合い着座。百人一首の上の句が読まれると、しとやかな動きで札を押さえた。
 祭神の素戔嗚尊が和歌の神であることにちなんだ行事。平安時代のみやびな女性に扮した立命館大2年石坂詩織さん(20)は「多くの参拝客がいてドキドキしたが、落ち着いてできました」と話した。

 競技かるたの対戦もあり、元かるたクイーンらの素早い手さばきに歓声が上がっていた。(共同)201713 1740分 東京

2016年7月13日水曜日

天皇陛下「生前退位」の意向

天皇陛下「生前退位」の意向 NHKが報じる
*春の園遊会に出席した天皇、皇后両陛下、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻=4月27日、東京・元赤坂の赤坂御苑

 NHKは13日夜、「天皇陛下が天皇の位を生前に皇太子に譲る『生前退位』の意向を宮内庁関係者に示された」と報じた。20167131918分 朝日

2016年5月9日月曜日

中村家古書画コレクション

中村家古書画コレクション
 もう一つご紹介させてください。
ひょっとすると第50代桓武天皇【在位:天応元年43日(781430日)― 延暦25317日(80649日)】にさかのぼるお家柄の可能性がある中村家です。
「サロン中村古書画コレクション」として資料公開しています。まずは、以下の開設趣意書をご覧いただきたいと思います。 

「サロン」開 書 (HPより)
サロン――中村古書画コレクション約三〇〇点の古書画には、国宝・重文級はもちろん、極めの付せられた格別のお宝と言えるようなものはほとんど存在しない。ただ人の目に触れさせてもらえるものなら、それなりのレベルで、時には史料として、また、時には芸術として、それなりの存在意義を認められないものでもあるまい――要するに、宝の持ち腐れに陥るの愚だけは何としても忌避したかったというのが、主宰として、その主宰たるべき決断をすることにも含めた「サロン」開設の趣意である。

詳述するなら、本コレクションは、主宰自身の収集も合わせた当中村家四代およそ二〇〇年間に渉る古書画収集のすべてである。
二十三代=萬五郎政敏(神道無念流剣士中村有道軒一世――万延元年没・享年七十七歳)
二十四代=七郎右衛門正廸(中村有道軒二世――明治二十九年没・享年七十三歳)
*二十五代=重太郎(大相模村初代村長――昭和十六年没・享年七十一歳)、(銅像)
二十六代=壽馬
二十七代=穎司(本サロン主宰)が、その間の当主になる。

今日に至るまで御当地――大相模郷の開拓者としてほぼ千年に近い歴史を刻みつつある当家に、つまり、二十二代以前に床の間を飾るべき「古書画」の一幅も存在しなかったはずもなかろうが、そのこととは別に、弟子千人を抱えて、なお全国を股にかけての剣の修行を重ねることを怠らなかった二十三代の、深遠測りがたい人脈と声望とが、おのずと貴重なものの多くを身近に寄らしめていたであろうことも想像に難くない。
二十四代は、口伝によれば、幕末から維新を生きた名立ての趣味人。奢侈を誡めた当家の家風はそのまま承け継ぎながら、剣の衰退――武士にはやる瀬ない時流の捌け口として、江戸を中心とした多くの文化人との交流に、せめてもの生甲斐を見ていた由である。
二十五代は、馬鹿なことを始めおっての一言を残して、太平洋戦争勃発の翌日に他界する。明治末期から昭和前期に及んだ、大きな世界を睨んだ小さな国の、未曾有の喧噪の只中を、政治家として、また、文化人として、その世相に義理立てすることだけは全うした、人呼んでの損長さん――一面木偶のごとくにも見られた無欲の村長であった。

さて、当家は、二十六代=壽馬(昭和十四年没・享年三十四歳) 逆順の早逝といわゆる敗戦がもたらした長い混迷の時を経て、昭和三十九年、長い歴史を刻んだ旧屋の一部 (明治四十三年築=現客間) を残して全面改築 (平成元年一部増築=現母屋)、同時に、伝承の古書画も修理・修復(新装) に取り掛かることになる。前記三代の全く与り知らない、二十七代――主宰の独断による秘かな目論みのスタートであるが、爾来ほぼ四十年、本コレクションの試みにはまた、秘かに、小類聚群の形式による公開展示の目論みまでもが含ませられていたことから、主宰たるべき立場としての新たな収集は、専ら、その欠落の最低限での補填に終始した。この間、軸装・額(和)装に関する修理・修復(新装)を要したもののほとんどは、江原小林堂・江原史雄表具師(越谷市大沢四―十五―二一)の手になること、 また、同氏より、手彫りされた看板をご寄贈いただいたことを、付言しておきたい。

ところで、本「コレクション」の対象は、あくまでも軸装・額()装になる「古書画」である。その基準は、これもまた主宰の独断、つまり今日でもなおその筋の権威の揺るがない『大日本書画名家大鑑』(復刻版・第一書房刊)収録作家の作品を下限とすることが原則になる。当該書籍の刊行は昭和九年であるから、当該作家は、その時点で、既に、その作家活動に一応の評価を得ていたわけで、 したがって、少なくとも明治生まれの作家の作品を下限とすると言い換えることもできるかもしれない。

もう一つ、 展示作品の真贋についての基準は、鑑識の責を負えない主宰の立場では、にせものをにせものと知って収集するコレクターは存在しないとの常識の線からご寛容いただく外に仕方がない。もちろん、厳しい目による、然るべき教唆を拒むものでないことは言うまでもない。

最後に、本コレクションは、古書画の公開展示が建前であるとは言え、主眼とするところは、むしろ、人と人との、偶然の、ささやかな出会いがもたらす、人と人とのささやかな心の交流――そこに開かれていくはずの、人々の語らいを通した安らぎの場を供させていただくことである。サロンの名を冠せてみた所以でもある。展示空間は、当家の日常の生活空間でもあることから、この種のものとして狭小に過ぎるかとも思えるので、ぜひとも庭にまで降りていただき、その中を、その周辺を、ご自由に、お歩きいただくことも、「古書画」をご覧いただくことに合わせてのお願いとして添えておきたい。ちなみに、何の変哲もない粗野な庭ながら、昭和六十三年・越谷市指定の天然記念物――推定樹齢三〇〇年の中村家のクスノキがある。(主宰 ―― 平成十四年四月十日記)

ちなみに、当家代々は「桓武天皇」を(1)として、初代「大相模次郎能高」を(13)とすれば、本「サロン」主宰=27代「頴司」をもって(39)を数えることになる【大相模氏系図(内閣文庫蔵「諸家系図纂 (3)野与党」参照)による

――
実は中村家は遠縁の親戚(いとこの嫁ぎ先)にあたります。
先日「いとこ」が越谷に参集し、第27代現当主自らのご案内で、越谷の歴史に始まり、1000年に及ばんとする中村家歴史資料、大相模次郎能高(大相模家初代:史料が残る中村家初代)の時代考証、幕末の神道無念流名剣士第23代中村有道軒一世、および第24代同二世、第25代重太郎関係史料に加え、過去200年にわたり収集された中村家古文書コレクションのお話しを直接伺うことができました。
 膨大にして極めて貴重なコレクションは、当主の優れて綿密な時代考証、深い造詣、ご努力を経て整理され、常設展示と月替わり展示で公開されています。

史料一点をとっても、そこに連なる歴史を考えさせられ大変興味をそそられ感動ものでした。とても一度や二度の訪問ではカバーできません。何度も訪れたいと思いました。

2016年5月8日日曜日

長江家住宅  京都市指定有形文化財

長江家住宅
 京都市指定有形文化財

<長江家住宅概要>
下京区新町通綾小路通下ル船鉾町に位置し、中二階型の主屋を南北二棟持つ大型京町家。
長江家は1822(文政5)年に転居し、現在の北棟の土地に店舗兼住居を構えた。1864(元治元)年、禁門の変により当時の主屋は焼失するが、1868(慶応4)年に現在の北棟が再建され、その後1905(明治40)年に南棟が新築され、現在の姿になった。
代々呉服の卸を営んでおり、建物だけでなく明治以降の商い道具や生活用品等、貴重な品々が大切に受け継がれている。職住一体型の典型的な町家の佇まいを今に伝える数少ない京町家である。
2005(平成17)年に京都市指定有形文化財(建造物)に指定された。建物は間口7間、奥行30間、面積200坪(700平米)余。
現在は、主屋南棟や化粧部屋などを一般公開(予約制、一部非公開)している他、催事会場として、撮影や展示会、お茶会などにご利用いただいています。

*戦前頃の長江家住宅外観

長江家住宅の歴史
文政5(1822)年、長江家三代目の大坂屋伊助が袋屋町(現下京区船鉾町)に入町し、現在の主屋北棟部分35坪の土地家屋を買得しました。以後、その地で代々呉服卸商を引き継いできました。しかし、五代目の頃、元治元(1864)年、禁門の変による京都大火で家屋はすべて焼失してしまいました。
その後、慶応4(1868)年に主屋が再建(現北棟主屋)され、明治8(1875)年には、その背面裏地に大蔵が移建されます。
明治39(1906)年、六代目長江伊三郎が南隣地を取得し、同40(1907)年、同地に表屋造の主屋南棟、離れ座敷などを新築、新蔵を移建しました。その後、大正4(1915)年に、化粧部屋、浴室が新築され、現在の姿に至ります。それに伴い、職住機能の大半を南棟に移し、以降、江戸時代より86年間店舗兼住宅としていた北棟は、隠居所として利用されるようになります。現在も当時の姿を変えることなく大事に受け継いでいます。(HPより一部抜粋)(写真提供:立命館大学)

―― 
実は長江家は遠縁の親戚(いとこの嫁ぎ先)にあたります。あの歴史ある由緒正しき京都にあっての「文化財」、なんと素晴らしいことか。一方、個人での維持管理が課題になるのは大きな課題ですが。

2016年5月6日金曜日

薬種商の館 金岡邸

国登録有形文化財
薬種商の館 金岡邸

 
金岡邸は、300年の歴史をもつ富山売薬業に関する資料を中心に、薬業全般にわたる多くの資料が保存展示され、国内でもまれな薬業資料の館です。母屋部分は明治初期の商家で、薬種商店舗の遺構をとどめており、新屋部分は、伝統的木造建築の特徴が生かされた総檜造りの建物で、豪壮で格調の高い折上げ格天井の座敷を有しています。
 資本家として力のあった薬種業者たちは、富山県内各地に金融機関をはじめ広い分野に投資し、県・産業の育成に大きく貢献しました。
 
金岡家は江戸末期より薬種商を営み、家祖金剛寺屋又右衛門の長男金岡又左衛門は、若くして県議会議長、衆議院議員を歴任しました。全国でもいち早く電気事業に注目し、明治32年(1899)に大久保発電所を完成し、北陸で初めて電灯をともし、多くの水力発電所を建設しました(現北陸電力株式会社)。大正2年(1913)に北陸初の電鉄の工事を完成し(富山軌道株式会社)、大正11年(1922)には常願寺川の治水につとめ、砂防工事を国営事業に組み入れる道を開きました。特筆すべきはこの水力・電力を基礎に多くの産業を誘致して富山県の経済基盤の土台づくりを成し遂げ、他方、私財を育英事業に投じました。
 二代目又左衛門は戦後、第一薬品株式会社や富山合同無尽株式会社(現富山第一銀行)を設立しました。
 三代目又左衛門は、テイカ製薬株式会社や富山女子短期大学を創立し、富山相互銀行を経営し、富銀奨学財団を設立しました。
 五代目金岡幸二は情報産業のパイオニア、富山計算センター(現インテック)(1964)を設立し、全国屈指のコンピューター企業(ITHD)に育て、また富山国際大学を設立しました。
 六代目当主金岡祐一は、北大教授、日本薬学会頭、日本学術会議第七部長、富山国際学園理事長、富山短期大学学長、富山国際大学長などを歴任し、さらに第一薬品をテイカ製薬へ合併しました。
 その弟、金岡純二は、富山第一銀行を確立しました。
 このように、金岡家は、歴代薬種商時代の資本を元に、富山県の経済界に、力強い足跡と業績を残しています。 (HPより一部抜粋)

 ――
実は金岡祐一先生は大学の恩師にあたります。
2007年日本薬学会年会が富山で行われた際には、ご実家であった「金岡邸」を先生自ら、我々「悪童」に案内して下さいました。決して忘れることのできない素晴らしい思い出を作ってくださいました。
上記にもありますように、先生は東大、米国留学を経て、北海道での薬学教育に尽力され、世界への研究成果発信、富山県の産業・経済発展、教育活動、さらに、日本の薬学会や学術会議のリーダー、そして世界中でのご活躍――などなど我が国が誇るべき先生なのです。

ごく最近、先生の米寿のお祝いにお招き頂き元気なお姿と変わらぬシャープなお話しぶりを伺う機会がありました。

2015年12月14日月曜日

横井也有

横井也有
元禄15年(1702年)、尾張藩で御用人や大番頭を務めた横井時衡の長男として生まれ、幼名は辰之丞、通称は孫右衛門と言った。本名は時般(ときつら)、別号に永言斎・知雨亭など。横井氏は北条時行の流れを組む家柄と称する。
26歳にして家督を継いだ後は用人、大番頭、寺社奉行など藩の要職を歴任。武芸に優れ、儒学を深く修めるとともに、俳諧は各務支考の一門である武藤巴雀、太田巴静らに師事、若い頃から俳人としても知られ、俳諧では、句よりもむしろ俳文のほうが優れ、俳文の大成者といわれる多芸多才の人物であったという。同じ尾張藩士で絵師として知られた内藤東甫とは俳画で度々合作しているほか、東甫による也有の肖像画なども残る。
宝暦4年(1754年)、53歳にして病を理由に隠居した後は、前津(現在の中区前津1丁目)の草庵・知雨亭に移り住み、天明3年(1783年)に82歳で没するまで、俳文、漢詩、和歌、狂歌、茶道などに親しむ風流人として暮らした。(Wikipediaより)

 しわがよるほくろができる背がかがむ頭がはげる毛が白くなる
 手はふるう足はよろつく歯は抜ける耳は聞こえず目はうとくなる
 またしても同じ話に孫自慢達者自慢に古きしゃれ言う

 くどくなる気短になる愚痴になる思いつくことみな古くなる
 身にそうは頭巾襟巻杖眼鏡たんぽ温石尿瓶孫の手
 聞きたがる死にともながるさびしがるでしゃばりたがる世話焼きたがる

2015年12月9日水曜日

モナリザの下に3つの肖像画あった

モナリザの下に3つの肖像画あった、モデルの真の姿か
*「モナリザ」をフランスの科学者が分析
(CNN) レオナルド・ダビンチの名画「モナリザ」を研究していたフランスの科学者が、モナリザの微笑の下に3つの肖像画が隠されていたことが分かったと発表した。
この研究を行ったのはフランスの科学者パスカル・コット氏。モナリザの下に描かれていた3つの肖像画のうち1つは、モナリザのモデルになったと言われる女性リザ・デル・ジョコンドの実際の姿と思われるという。
この女性は遠くに視線を向けていて、モナリザのような微笑は浮かべていない。コット氏はこれこそがジョコンドの真の姿だと確信したといい、この発見について「多くの神話を打ち砕き、ダビンチの名作に対する私たちの見方を一変させかねない」と位置付ける。
リザの別名はリザ・ゲラルディーニ。フィレンツェの商人の妻だった。
コット氏は多重スペクトルカメラでモナリザの表面に強い光を当てて反射を測定し、絵の具の層と層の間に描かれた内容を浮かび上がらせることに成功した。
美術史の専門家マーティン・ケンプ氏によると、モナリザも含めてダビンチの作品は、制作の過程で何度も手を入れているのが特徴だという。同氏はコット氏の説に疑問を投げかけながらも、研究に用いた技術は高く評価した。

BBCのドキュメンタリー番組を制作した美術史専門家のアンドルー・グレアムディクソン氏は、歴史を一変させる驚くべき発見だと評価している。2015.12.09 Wed posted at 12:06 JST

2015年10月21日水曜日

9日間断食不眠! 延暦寺の荒行「堂入り」

9日間断食不眠! 延暦寺の荒行「堂入り」、釜堀住職が満行 戦後13人目
*「堂入り」を終え、明王堂を出る釜堀浩元さん=21日午前2時、大津市(代表撮影)
 比叡山延暦寺(大津市)の荒行「千日回峰行」のうち、比叡山中の明王堂にこもり9日間、断食、断水、不眠、不臥で不動真言10万回を唱える最大の難行「堂入り」に挑んでいた延暦寺善住院住職、釜堀浩元さん(41)が21日未明、無事満行し、出堂した。達成した行者は8年ぶり、戦後13人目。

 千日回峰行は比叡山中などで7年間かけて行われる修行で、1000日間で約4万キロ(地球1周分)を歩く。堂入りは700日目から始まり、不動明王と一体となることを目指す行。
 白装束姿の釜堀さんは午前0時15分ごろ、不動明王に供える最後の水くみを行ったあと、堂内で最後のお勤めを終え、断食後初めての薬湯を口にした。

 午前2時前に正面の扉が開かれ、両脇を僧侶に抱えられて出堂。衰弱した様子だったが、しっかりとした足取りで前を見据え、歩いた。約600人の信者が不動真言を唱えて釜堀さんを出迎えた。
 出堂を見守った岐阜市の主婦、堀総子さん(68)は「9日間も不眠不休だったのにしっかりされていた。満行できて良かった」と感動した様子で話していた。
 釜堀さんは平成23年3月から千日回峰行に入った。29年まで続く予定。2015.10.21 10:52 産経

2015年10月14日水曜日

検非違使イメージ

検非違使イメージ、和装警官…時代祭でお披露目
*和装制服を披露する京都府警の平安騎馬隊(14日午前、京都市左京区で)=吉野拓也撮影
 京都府警平安騎馬隊が、平安時代に治安を担当した官職・検非違使けびいしをイメージして西陣織の和装の制服を導入し、京都市で22日にある「時代祭」でお披露目することになった。

 警察騎馬隊は京都府警と警視庁、皇宮警察にしかなく、府警によると、和装の制服は初めてという。
 制服は萌黄もえぎ色の男性用と藤紫色の女性用の2種類。これまでは警察の制服だったが、京都府が約240万円かけて制作した。

 14日には京都市左京区の同隊庁舎で本番を前にした訓練があり、和装の制服で参加した同隊の南口佑美巡査長(33)は「見物客の安全とともに祭りの情緒も守りたい」。20151014 1444分 読売

2015年10月5日月曜日

<平和と民主主義>数学者 森毅さん

もう一度読みたい:<平和と民主主義>数学者 森毅さん 「ええんちゃうの」の反骨心
 82歳で5年前に亡くなった京大名誉教授で数学者の森毅さん。自民党が郵政選挙で大勝した直後の取材に「戦後平和教育の失敗が世の中を戦争好きの人でいっぱいにした」「多様化の時代だからこそ、人は不安になって統一を求める」と憂えていた。
*=2007年8月、大橋光一撮影
<2005年11月11日 東京本社夕刊2面から>

 高瀬川を左手に見ながら、やってきたのは四条木屋町の裏路地、喫茶店「フランソア」。1934(昭和9)年の創業で、国の有形文化財にも登録されているという建物だ。中に入るとドーム形の天井にアーチ。ステンドグラスまである。

 数学者で京大名誉教授の森毅さん(77)は、ステンドグラスを背にビロード張りの小さなイスにひょいと座った。白髪にステンドグラス越しの柔らかい光が落ちると、そこだけ昭和モダンの色になる。「この店には三高時代によう来ましてなあ。夕方になると起き出して、学生仲間とぶらぶら歩いて。一番安いカルピスにストロー3本注文し、3人で1杯を回し飲みしつつ議論したもんよ」

 この日注文したのはコーヒーと洋なしのタルト。小さなテーブルで肩を丸め、ケーキをつつきながら、まずは若者談議となった。森さんは34年間、京大生と付き合ってきた若者ウオッチャーでもある。退官から14年。喜寿を迎えた森さんの目に、今の若者はどう映るのか。

 「幼く見えませんか」と尋ねたら、早速、人をけむに巻く語り口で「むしろ『おじさん化』が進んでるねえ」。「おじさん化」とは何ぞや。
 「やたら『みんなこうするもんや』とか『誰でもこうしてるんや』と物事を単純に断定したがる人のこと。世間のおじさんは一番忙しい年齢層やから、ああでもない、こうでもない、と考えをめぐらせるヒマもないのよ。こんなおじさんの言説を原資に、時代の常識は作られているわけ」

 そこで、ぷかりと一服。

 「そやけど若者は違う。若者が『おじさん』になったら時代は止まってしまう。若者の良さは時代に背を向け、行動すること。学生運動かてそう。若者の勢いで世の中って案外動くんよ。だから若者は時代からちょっとずれてるのがよろしい。ところが今の若い人は言うことなすこと、おじさんそのものや」

 かと言って若者に怒るわけでも世を憂うわけでもない。飄逸(ひょういつ)である。決めゼリフはいつも「ええんちゃうの」。

 例えば郵政民営化の是非を聞いても「ええんちゃうの」。「衆院選の『小泉圧勝』現象は?」と話を振っても「人は、はやってるものに固まるのよ。昔の京大もそうや。『今はヘルメットの季節や!』いうて学生が固まったやんか」と笑う。

 どうもこのインタビュー、森さんの手のひらで転がされている気がする。「この国はどこへ行こうとしているのか」とこちらがまなじりを決しても、のらりくらり、のれんに腕押し。

 「僕は、小泉さんのプロデューサーとしての才能を買ってるの。政治家も当たる興行を打たなあかん。今回の自民党圧勝は時代の節目のお祭り。どうってことないわ。小泉さんは祭りの音頭取りやから、僕らもそれにうまいこと付き合ったらええ」。これが森さんの小泉論。

 郵政民営化問題では、「何十年か後に、童謡の『やぎさん郵便』を歌いながら『昔は郵便局っていうのがあったんやなあ』と懐かしがったらええ。『村の渡しの船頭さん』や『村の鍛冶(かじ)屋』と同じよ。国鉄も民営化したら懐かしさが募って『鉄道員(ぽっぽや)』がはやった。郵便局も今後、興行的には受けるんとちゃう? 僕かて古いもんは好きやけど、好きやから残そう、というのは間違い。無理やもの。世の中は変わっていくもんなのよ」

 ◇「政府も学校もだますもんよ。だまさへん政府や学校なんか不可能よ」

 インタビューが始まってはや3時間。森さんは延々と、京大の学生運動から米国の戦後占領政策、17世紀のオランダ文化、フーリエの「情念」理論まで持ち出して持論を展開し続ける。それらが全部、専門の数学と分野が違うというのだからまさに博覧強記だ。


 それでいて、どうも森さんの本音にたどりつけていない気がする。肩すかしのユニークな言説こそが森さんの持ち味と知ってはいるけれど、何かもどかしい。最後はやぶれかぶれで「直球」を投げてみた。

 「でも『ええんちゃうの』で戦争を止められますか?」

 そしたら森さん、跳ねっ返りの学生を諭すかのように静かにこう話し始めた。

 「そりゃ、あんた、無理やでえ。そんな力あらへんもん。戦争はいややけど」

 それから、ほう、と一つため息をつき、言葉を継いだ。

 「戦後平和教育の失敗やろなあ。成功してたら、こんなに戦争好きの人で世の中いっぱいになるはずない。世の中が『闘争心を持つのはいいことや』と言い過ぎてないか? いつの世にも戦争が好きなやつと嫌いなやつはおる。仕方ないのよ。僕は嫌いやった。戦中でも闘争心はゼロ。軟弱非国少年なりに、その時代をいかに生きるかを僕は必死で考えたのよ」

 言葉が段々と熱を帯びる。喫茶店に流れるBGMは、ベートーベンの交響曲。バイオリンの音色が空気を緊張させる。

 「軍国主義を警戒するのも必要やけどな。もしも軍国主義になった場合、生き残るためにはどうしたらいいのかを考えるのも、大事とちゃうやろか。原体験があるのよ。戦争が終わった後、大人はアホやと僕は思ったよ。何が『国民をだまさない政府を作ろう』や。何が『子どもをだまさない学校を作ろう』や。アホ言うな。政府も学校もだますもんよ。だまさへん政府や学校なんか不可能よ。だますもんや、と思って、だまされへんように考えるほうが大事でしょ。国民はねえ、だまされへん用意をせなあかん」

 意外なほど「直球」の返事にドギマギする私に気付いたか、森さんはすぐに笑顔に戻り、軽くこう付け加えたのであった。「だまされん用意ってのは、まあ、振り込め詐欺に強い大阪のオバチャンみたいなもんよ。ほっほっほ」

 好々爺(こうこうや)然とした語り口も、ひょうひょうとした風貌(ふうぼう)も、絶妙なバランス感覚も、他人をけむに巻くユーモアも、意外と戦争体験の果てに生み出された生活の知恵なのかも、とふと思った。

 ◇「多様化の時代だからこそ、人は不安になって統一を求める」

 「戦争中はみんな愛国心に燃えてた、なんて、あれウソや。愛国少年と非国少年を分けたら世間でも6対4。三高の中は4対6で、非国少年が多数派やった。イデオロギーが違っても、お互いに議論できた。むしろ戦後のほうがきつかったよ。『みんな仲間。一致団結、がんばろー』みたいな仲間の強制力は戦後、逆に強まったんとちゃうのかな? 今はそれがもっと強くなってるね。戦争中よりも、今みたいに価値観が多様化する時代のほうが、『同じであれ』という強制力が強いのよ。なぜなら、多様化する社会の中で多様性を維持するのは実は大変だから。みんなが不安になるからね。多様化の時代だからこそ、人は不安になって統一を求める。安心したくなる」

 それから森さん、おもむろにこんな話を始めた。「大阪の下町には世話焼きバアサンがいて、両隣の家の前の路地まで掃除する。ありがたいけどうっとうしい。一方、東京ではきっかり自分の家の前の路地だけ。気楽だけど冷たい。京都人はどうするか。『ついはずみで』って感じで時々、思い出したように他人の家の前も掃除する。常に境目が揺らぐ。極端に走らない。『ほどほど』を知ってるのよ。僕がこの街で生きやすいのはそのせいかなあ」

 つまり「ええかげん」に見えて「良い加減」ということか。

 「大事なのは多様性。極端にどちらかに偏らないこと。生態系もそうよ。森で棲(す)むやつは、鳥は鳥、虫は虫のリズムで生きてる。だからお互い食い違うに決まってる。違いをなんとかやりくりして生きている。みんなが一緒になったらあかんのよ。人の心も。いろいろあったほうがいい」

 ふと気付けばいつの間にか時計は進み、バロック様式の店内は、昼の客から夜の客へと変わろうとしていた。あわてて店を出てしばらく歩けば、そこはもう四条の繁華街。京都は新旧を上手に取り混ぜた街なのだった。

 鴨川越しに夕焼けを見ながらの別れ際、森さんは教え子を案ずるかのように、最後にこう言った。「僕もおしゃべりやから、つい、ぎょうさんしゃべってしまったけどね、新聞記事には一つか二つ選んで、あとは適当でええんよ。無理して全部入れようとしたら大変よ。ほどほどでええのやからね」【小国綾子】

 ◇森毅さん略歴

 もり・つよし。1928年、東京生まれ、大阪育ち。旧制三高から東大理学部へ。京大を91年に定年退官。評論家・エッセイストとして数学から時事問題まで、幅広く発言している。

*=2005年11月11日 東京本社夕刊2面

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 ◇その後の森さん…「味方が死んだから反戦ではなく、敵も死んだから反戦なのだ」

 2010年7月24日に敗血症性ショックのため亡くなった森さん。前年に自宅で料理中に大やけどし、以降は表舞台に立つことはなかったが、専門の数学にとどまらない博学ぶりと、ひょうひょうとした語り口は印象深い。

 森さんは京都大教授の時に、学生から「なぜ講義で出席を取らないのか?」と問われ、「分かった。では、出席している人は得なので、その分点数を引こう」と答えたことがあったという。その逸話をきっかけに親交を深めた京都外国語大の福井直秀教授(66)は「付き合いは長いが、一度もしかられたことはなかった。『もっと力を抜いて考えたら』と助言をもらうことが多かった」と振り返る。


 福井さんは森さんの随筆などをまとめた「一刀斎、最後の戯言」(平凡社、10年刊行)の編集に携わった。その著書には「味方が死んだから反戦ではなく、敵も死んだから反戦なのだ」との言葉が残る。死者はすべてのレッテルから解放されるという信念、反戦への思いは一貫していた。集団的自衛権、原発、沖縄など議論が分かれる多くのテーマを抱える現代。福井さんは「森さんのような人は絶対に必要だ。生きていたら、どう話すだろうか」としのぶ。【大村健一】20151002日 毎日

2015年9月24日木曜日

カフカス最古の文字発見

カフカス最古の文字発見、ジョージア古代神殿で
石版に刻まれた謎の文字が、カフカスの歴史認識を変える
*ジョージア(グルジア)、グラクリャーニの古代神殿跡から出土した、石の側面に彫られた謎の文字。カフカス地方で発見された文字のうち、最古のものと見られる。
 ジョージア(グルジア)のトビリシ国立大学で考古学を学ぶソフィア・パータシュビリ氏は先月、鉄器時代のグラクリャーニ遺跡の古代神殿の発掘作業中に、変わったものに気づいた。崩れた祭壇下の石板に彫られた一連の模様だ。
 ほかの神殿で見つかった碑文とは違い、ここに記されているのは動物や人間でも、不規則な装飾でもなかった。
 トビリシ大学考古学研究所の所長で、これまで8年にわたりグラクリャーニ調査団を率いてきたバフタング・リチェリ氏によれば、これはカフカス地方で生じた最古の文字と考えられ、これまでに発見されていたこの地域独自の文字よりもゆうに1000年は古いという。

「この発見は、ジョージアの歴史にとって重要なだけではありません。文字の歴史においても重要なのです」と、リチェリ氏は言う。
 発掘された碑板(約80センチ×8センチ)の一部には、岩を深くえぐって刻まれた文字が、少なくとも5種類見てとれる。リチェリ氏は古代ギリシャ語やアラム語の文字との類似点を指摘する一方で、全体的に見て、ほかのどの文字体系とも関連性がないという。
 これは装飾ではなく、文字体系の一部であるのは疑いようがないと、リチェリ氏は考える。「装飾なら、2つか、4つか、6つおきに、繰り返しがあります。ここに繰り返しはありません」。なめらかに仕上げた彫刻者の腕についても「とても手慣れていますから、これが初めてということはないでしょう」と指摘する。

 リチェリ氏によると、碑文は神殿が建てられた紀元前7世紀のものと考えてさしつかえなさそうだ。指標となるのは同遺跡で見つかった土器の破片。色や素材、デザインにおいて、ジョージア各地の同じような遺跡からの出土品と共通点があるので、年代についてはほぼ疑いの余地はないという。


*紀元前600年前後のイベリア(カルトリ)地方。 実線は現在の国境線。グレー部分は国境線紛争中の地域。

文明の停滞期はなかった
 このわずか数文字が、古代ギリシャや古代ローマの人々がイベリアと呼んだ(イベリア半島とは別)、黒海沿岸まで広がる地域の住民について、従来の歴史認識を覆した。
 考古学者たちは長年、紀元前4000年には、この地に文字文化があったことは知っていた。ジョージア各地の発掘調査で、古代アッシリアや古代ギリシャ、古代ペルシャの硬貨やビーズ、土器などが見つかっていた。

 だが紀元前2000年末から紀元前5世紀まで続いた鉄器時代に関しては、イベリアに文字があった痕跡はこれまで見つかっていなかった(ジョージアやアルメニアで最古とされてきた文字は、この地域の住人がキリスト教に改宗した直後の、紀元5世紀以降のものだった)。(以下略)2015.09.24 ナショジオ

2015年8月13日木曜日

古代エジプトの王妃の墓発見か

古代エジプトの王妃の墓、ついに発見か
*謎に包まれた王妃の埋葬場所について新たな説が浮上

(CNN) 古代エジプトの美女として名高いネフェルティティ王妃はこれまで遺物などがほとんど発見されず、埋葬場所も謎に包まれていた。しかし米アリゾナ大学の英国人考古学者、ニコラス・リーブズ氏がこのほど発表した論文によると、王妃の墓は思いがけない場所に隠れている可能性がある。義理の息子に当たるツタンカーメン王の墓の中だ。
ネフェルティティ王妃はエジプト第18王朝の王、アメンホテプ4世の王妃。十代の若さで亡くなったツタンカーメン王の墓はエジプト南部ルクソールにあり、その精巧な再現画像が昨年、スペインのマドリードを拠点とする芸術家などからなるチームによって一般に公開された。
アリゾナ大のリーブズ氏は、これらの高解像度の画像を徹底的に分析。その結果、ツタンカーメン王の埋葬室の西側と北側の壁にそれぞれ割れ目が見つかったという。そこに今まで知られていなかった出入り口があるのではないかと、リーブズ氏は推測する。
このうち北側の出入口は別の埋葬室につながっているとみられ、ネフェルティティ王妃はここに葬られている可能性があるという。王妃はツタンカーメン王が亡くなる10年前に亡くなった。

リーブズ氏によると、ツタンカーメン王の埋葬室は王の墓としては小さく、構造も普通とは異なると指摘されてきた。埋葬室からは、ツタンカーメン王の即位より時代が古いとみられる発掘品も出ている。もともとあった王妃の墓を急きょ拡張して作られたとすれば、これらはすべて説明がつく。
英ケンブリッジ大学のエジプト学者、トビー・ウィルキンソン氏は「非常に興味深い説だ」と関心を示した。同氏によると、地質調査用のX線技術を使えば、周囲を傷付けずに壁の向こう側の構造を調べることができる。「2~3年以内に、隠された埋葬室の存在が確認できるかもしれない」と、同氏は期待を寄せる。

ネフェルティティ王妃をめぐっては、2003年に英ヨーク大学のエジプト学者がミイラを発見したと発表して話題を呼んだ。しかしその後間もなく、エジプトの考古最高評議会で事務局長を務めるザヒ・ハワス氏によって、このミイラは15歳の少年のものだと結論付けられた。2015.08.13 Thu posted at 15:56 JST

2015年8月11日火曜日

ユダヤの「教え」から2

ユダヤの「教え」から2
楽観は、自分だけでなく、他人をも明るくする。
自分を笑えるものは他人に笑われない
肝要なことは解釈ではなく、実践である。
生物の中で人間だけが笑う。人間の中でも、賢いものほどよく笑う。
医者に尋ねるより病人に尋ねよ

貧乏人と病人の忠告にはいつも真意がある
賢人は自分の目で見たことを人に話し、愚か者は自分の耳で聞いたことを話す。
他人を幸福にするのは、香水をふりかけるようなものだ。ふりかけるときに、自分にも数滴はかかる
人間は有るものを粗末にし、無いものを欲しがる
井戸に唾する者は、いつかその水を飲まねばならない

権力に気をつけなさい。なぜなら、彼らは自分たちにとって必要でなければ近寄ってこない。
人は自分が考えるような人生を生きている。
「ありがとう」という言葉は、ポケットにしまってはいけません。
人は3つの名前を持つ。両親が生まれた時につけてくれた名前。友達が親愛の情を込めて呼ぶ名前。そして、自分の生涯が終わるまでに獲得する名前である。

知者が間違うときは、恐ろしいほど根本的に間違う
愚か者にとっては高齢は冬。賢い者にとっては収穫の季節である。
柔軟性を持っている者は、いくら年をとっても若い者だ。
賢い男は、よく考えるからしゃべる暇がない。愚かな男は、よくしゃべるから考える暇がない。

愚か者にとって老年は冬である。賢者にとって老年は黄金期である。

2015年8月7日金曜日

ユダヤの「教え」から

ユダヤの「教え」から
利害関係ができたときにはじめて、友人かどうかが分かる。
相手の立場に立たないで、人を判断するな。
豊かな人とは、自分の持っているもので満足できる人のことである。
人を称賛できる人こそ、本当に誉れ高き人である。
自分が相手と同じ立場に立ったことがないのなら、その相手を批判する資格はあなたにはない。


出逢った人すべてから、何かを学べる人が最も賢い。
耳と耳の間に、最大の資産がある。
知識は浅いとすぐ失われる。
神はいつも傍には居られない。だから、母を創ったのだ。
人は歩まんと欲する道に案内される。

力ある者とは誰か。敵を友に変えてしまう者である。
一回道に迷うより、道順を十回聞いた方が良い。
一人の賢明な母は100人の教師に勝る。
疑問を抱くことは、人を賢明にさせる。
忍耐強ければ、それは知識と知恵の源泉となる。

評判は最善の紹介状である。
情報は自分の頭で考えることをして初めて意味をなす。
喪に服しているときに慰めてはならない。
幸福に恵まれるために知恵はいらない。しかし、この幸福を活かすためには知恵がいる。

0から1への距離は、1から1000への距離より大きい

2015年7月29日水曜日

チャールズ・チャップリン

チャールズ・チャップリン
私の最高傑作は次回作だ。
笑いとはすなわち反抗精神である。
映画の目的は笑わせることだ。しかし、そのなかには、二十世紀の世界に通じるシリアスな内容が含まれている
無駄な一日。それは笑いのない日である。
わずかの人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私のほしいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を賞賛してくれたならば、それで十分だ

あなたが本当に笑うためには、あなたの痛みを取って、それで遊べるようにならなければなりません。
私の苦痛が、誰かが笑うきっかけになるかもしれない。しかし、私の笑いが、誰かの苦痛のきっかけになることだけは絶対にあってはならない。
しばしば、とんでもない悲劇がかえって笑いの精神を刺激してくれる。
人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇
私は悲劇を愛する。悲劇の底にはなにかしら美しいものがあるからこそ、愛するのだ。

一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる
人生を恐れてはいけない。人生に必要なものは、勇気と想像力。それとほんの少しのお金だ
人に大切なのは、自信を持つことだ。私が孤児院にいたとき、腹をすかせて街をうろついて食いものをあさっていたときでも、自分では世界一の大役者ぐらいのつもりでいた。つまり勝ち気だったのだ。こいつをなくしてしまったら、人はうち負かされてしまう
行動を伴わない想像力は、何の意味も持たない。
私たちは皆、互いに助け合いたいと思っている。人間とはそういうものだ。相手の不幸ではなく、お互いの幸福によって生きたいのだ。

何のために意味なんか求めるんだ?人生は願望だ、意味じゃない。
忘れないで、いつも身をかがめていたら、何も拾いあげられないんだよ。
説明しなければ理解できないような美に対して、私はあまり寛容でない。もし創作者以外の誰かによって、その美について補足説明が必要ならば、私はそれが果たして目的を達成したと言えるのだろうかと疑う。
必要なのは知識でなく思いやりである。思いやりがなければ残るのは暴力だけである。心に愛を知らぬものだけが憎しみ合うのだ。人生はもっと美しく、もっと素晴らしいはずだ。

死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ

偉人

偉人
私はいつも人々に興味を持ってきたが、彼らを好きになったためしはない。サマセット・モーム

ユーモアのセンスを持っていると、人間性の矛盾を楽しむようになる。サマセット・モーム

正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ。アインシュタイン

愚者と天才の違いといえば、天才には限度があるということだ。アインシュタイン


どんな非常用救命箱にも、ユーモアのセンスが入っているべきなんだよ。

地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されている。 1946年 木原均

魚と訪問客は3日目には臭いはじめる。 フランクリン

2015年7月24日金曜日

世界最古級のコーランか

世界最古級のコーランか 英大学のコレクション
ロンドン(CNN) 英バーミンガム大学が所蔵するイスラム教の聖典「コーラン」の写本が、現存する世界最古のものの一つだったことが判明した。
写本は同じ1冊のコーランから抜け落ちたとみられる2枚の羊皮紙で、これまで7世紀末のものだと考えられてきた。
だがバーミンガム大学が放射性炭素年代測定法を使って分析したところ、95%以上の確率で568〜645年に書かれたものだと判明した。
これはイスラム教の預言者ムハンマドが生きていた時代(570〜632年)に非常に近い。
この2枚は同大学の中東の写本コレクションである「ミンガナ・コレクション」の一部。イラク出身の聖職者アルフォンス・ミンガナ師によって1920年代に収集された。

*写本に書かれた文言は現代のコーランに非常に近いという

写本はコーランの18〜20章とみられ、動物の皮にインクで書かれている。書体は「ヒジャジ」と呼ばれるタイプの初期のものが用いられている。
バーミンガム大学のデービッド・トーマス教授(キリスト教・イスラム教学)によれば、書かれている文言は現代のコーランに非常に似ているという。
同教授は「現代のコーランは、イスラム教の初期に編さんされた当時のコーランと非常に近いという見方を裏付けるものだ」と説明する。
イスラム教の伝承によれば、預言者ムハンマドがのちにコーランの中身となる啓示を神から受けたのは610〜632年にかけてのことだ。
「当時、神の言葉は現在のような本の形にまとめられたのではなく、『人々の記憶』という形で保存された。羊皮紙や石、ヤシの葉、ラクダの肩甲骨に書き残されたものもあった」とトーマス教授らは言う。

神の啓示を本の形にまとめるよう命じたのは、ムハンマドの死後、イスラム教社会の指導者となった初代カリフのアブー・バクルで、完成したのは650年ごろだという。2015.07.23 Thu posted at 16:02 JST

2015年5月21日木曜日

30代のシェークスピア?

30代のシェークスピア? 英歴史家が肖像画を「発見」
*今回発見されたシェークスピアの肖像画とされる絵
(CNN) 英国の研究者がこのほど、1598年の植物図鑑の表紙に描かれた人物がシェークスピアだったことが分かったと発表した。英誌「カントリーライフ」が画期的な発見として最新号に掲載した。ただし、専門家からは疑問の声があがっている。
この説を発表したのは植物学者で歴史家のマーク・グリフィス氏。もし正しければ、生前に描かれたシェークスピアの肖像画の発見は初めてとなる。これまでに確認されている2点の肖像画は、いずれも1616年の死後に描かれたものだった。
*シェークスピアの肖像画として知られる絵のひとつ
有名なのは1623年の戯曲集「ファースト・フォリオ」に描かれた肖像で、前頭部がはげた姿をしている。もう1点は出身地ストラトフォードアポンエイボンの教会にある。
一方、グリフィス氏が発見したという植物図鑑「ハーボール」には、30代前半ごろとみられる姿が描かれている。当時のシェークスピアは既に「リチャード3世」「ヘンリー4世」などイングランド王を題材にした戯曲を次々に発表していた。
グリフィス氏はエリザベス朝時代の暗号を解き、ハーボールに描かれた4人の男性のうち3人の人物を特定。4人目については時間がかかったが、植物の種類などを手がかりに、この人物はシェークスピアに間違いないと断定した。

ただし専門家は同氏の説に疑問を投げかけている。バーミンガム大学シェークスピア研究所長のマイケル・ドブソン教授は、「現時点でこれがシェークスピアだと考えられる証拠はない」と言い切った。2015.05.21 Thu posted at 13:29 JST

2015年5月16日土曜日

à la carte

à la carte
10年前に不可能だといわれたことが、5年経つと困難だに変わり、さらに5年経つと可能かもしれないというふうに周囲の反応が変わってきた。だから大事なのは執念だ。松村昭雄  

悲観主義者は、風向きが悪い、と不平を言い、楽観主義者は風向きが変わるのを待つ。しかし、現実主義者は帆の向きを調整する。ウォード

わたしに特別な才能はない。ただ好奇心がきわめて旺盛なだけなのだ。アインシュタイン

イギリス人を幸せにするもの――高学歴、宗教活動への参加、ガーデニング

DNAのヒトとの相違*
600万年前に分岐したチンパンジーとは99%が同じ
 1億年前に分岐したネズミとは90%が同じ
 15億年前に分岐した酵母とは30%が同じ 

一般的な病気は単一の遺伝子ではなく、数百から数千の遺伝子によって支配されている可能性がある。*

スプライシング再配置によって、同じ遺伝子でも数百種類の異なるたんぱく質を作ることができる。
すなわち、同じ遺伝子でも環境によって異なるたんぱく質を生成し、異なる病気を引き起こす。*
    *「双子の遺伝子」(スペクター)より