キリスト教徒だった? 千利休
■「濃茶」ミサ儀式に酷似/史料ない「偶然の一致」
幼名は与四郎。武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶の湯を学び、のちに戦国武将・織田信長や豊臣秀吉の茶頭として、数々の茶会を主宰。1585年には秀吉が開いた禁裏茶会で正親町(おおぎまち)天皇に献茶し、「利休」の号を勅賜された。
しかし、大徳寺山門に掲げた自らの木像が不敬とされて秀吉から追放処分を受け、70歳で切腹する。
竹製の茶杓(ちゃしゃく)や黒楽茶碗(くろらくぢゃわん)を好み、2畳という限られた空間の茶室をつくるなど、日本文化の粋ともいえる「侘び茶」の大成者としてその名が残っている。
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だが、その利休の茶が、実は当時の最先端文化だったキリスト教の影響を受けていたとする説がある。
利休の孫・宗旦の次男だった一翁宗守を祖とする武者小路千家の14代家元である千宗守さんは約20年前から、「一つの茶碗の同じ飲み口から同じ茶を飲む『濃茶(こいちゃ)』の作法は、カトリックの聖体拝領の儀式からヒントを得たのではないか」と主張してきた。
宗守さんによると、この飲み回しの作法が文献に初めて登場するのは1586(天正14)年。翌年には大阪城で開かれた茶会で、秀吉が「一服ヲ三人ツゝニテノメヤ」と言うほどまで普及した。「それ以前には行われた記録がない。どこかからヒントを得て、利休が創案したと考えるのが自然」
当時、日本でも有数の貿易都市だった堺では、キリスト教が盛んで、のちに七哲と言われた利休の高弟の中にも、高山右近や蒲生氏郷など、多くの信者がいた。
「ミサの際、イエスの血の象徴であるワインを杯に入れて回し飲みする様子を見た利休が、場の一体感を高める目的から、日本人にはなじみが薄かった飲み回しを茶の湯に取り込んだのではないか。茶入れを拭く際の袱紗(ふくさ)捌きや茶巾の扱い方なども、聖杯を拭くしぐさと酷似している。偶然とは考えにくい」
宗守さんは1994年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世にバチカンで謁見(えっけん)した際、この説を披露した。するとバチカンの関係者から「法王庁の未公開史料の中に、茶の湯とキリスト教のミサの関連を記した文書がある。いずれ公になると思うので、待っていてほしい」と言われたという。
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文教大学教授の中村修也(しゅうや)さん(日本茶道史)は「日本を訪れたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、千利休はキリスト教徒ではない旨、はっきりと記している。回し飲みも、心を一つにする際に行われる一味同心の時の盃の回し飲みと共通しているし、その他の作法の類似も、一般的な動作における普遍的な一致と言えるのではないか」と話す。
中村さんによれば、利休の最も大きな功績は、一般の人にも親しめる形で茶の湯をプロデュースしたことにあるという。
「新たに登場したいわゆる国焼の楽茶碗や竹製の茶杓は、貴族たちが使っていた中国の茶碗や象牙などの茶杓に比べれば、安価で入手しやすい。それがあって初めて茶の湯に親しむ人が増えた。もし、利休がいなければ、茶の湯の現在のような隆盛はなかったと思います」
利休は「恬淡(てんたん)とした茶人」ではなく、茶杓の工房を運営し、良質な茶の葉を手に入れて販売するなど、茶の湯にかかわる産業を総合的に運営した「商人」でもあったと中村さんは指摘する。晩年「売僧(まいす)」(商売をする僧)と悪口を言われたのは、それゆえだったのではないか。
(編集委員・宮代栄一)2014年2月3日05時00分 朝日
■読む
千利休をはじめ、戦国時代の茶の湯についてわかりやすく解説したのが中村修也『戦国茶の湯倶楽部』(大修館書店)。評伝には、芳賀幸四郎『千利休』(吉川弘文館)、村井康彦『千利休』(講談社学術文庫)などがある。
■見る
■訪ねる
千利休と、その系譜に連なる3千家(表千家・裏千家・武者小路千家)ゆかりの茶道具や書画が一堂に会するのが畠山記念館(東京都港区白金台)の「利休とその系譜」展(3月16日まで)。手紙や黒楽茶碗などもみもの。
■そのころ世界は
利休が活躍した16世紀は、中世が終わり、近世が幕をあけた時代と言えるだろう。
▽インカやアステカなどの中南米の文明が、スペイン人によって相次いで「発見」され、植民地になった。しかし、無敵艦隊がイングランド艦隊に敗れたことで、スペインの制海権にはかげりが見え始める。
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