2009年10月1日木曜日

万国共通6

戦争という名の殺人 
 万国共通シリーズも5回で止めるつもりでいたのだが、もう一つだけ触れておかなければいけない問題があった。課題が大きすぎて、キーワードを示すにとどまる。
 正当防衛以外個人レベルでヒトを殺めることは厳しく糾弾される。日本でも裁判員制度が導入され、この手の裁きに責任を持つことは悩ましい。間接的にせよ加担することになるわけだから・・・。

 すべての殺人が殺人罪とされるわけではない。例えば、刑務として行う殺人(死刑)、公務として行う殺人(治安機関による検挙時の犯罪者射殺、政府が指揮し、防衛軍事機関が行う戦争行為)、正当防衛などやむをえない事情による殺人などである・・・とされる。たしかにねえ・・・。そうは云ってもやはりねえ・・・。

 国防、正当防衛、自己防衛の名の下に国家が奨励する殺人は、世界中で絶えることなく続いている。戦争における殺人を一般の刑法で治めることは不適当として、一般に軍法が適用される。一部は戦争犯罪として国際的に罰せられる可能性がある。国際法が根拠とされることが多いが、しばしば法的根拠を欠く場合があったり、国家間の政治的駆け引きの要素が強いので注意が必要である。後述するように“東京裁判”が一例である。

 また、国家元首や政府の高官など権力を持つ者が自国民を大勢殺害した場合、その国の法律では調査・訴追・公正な裁判を行うことが極めて困難である。そのため国際刑事裁判所が設けられた。一方で、一部の国はこの枠組みに参加しておらず、更にアメリカ合衆国は参加しないだけでなく、アメリカ国民を国際刑事裁判所に引き渡さないことを約する免責協定を結ぶよう各国に要請するなど、その趣旨に自国民を加えることに反対している。このため、その実効性を疑問視する声もある。日本も長らくこの枠組みに参加しなかったが、国内法の整備が整い平成19年(2007年)7月17日、国際刑事裁判所ローマ規程を批准した。

ラダ・ビノード・パール判事
 勝者による敗者の裁判・東京裁判での、被告人全員の無罪を主張したインド人判事 ラダ・ビノード・パール(英語:Radhabinod Pal)の存在がある。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB

 極東国際軍事裁判(東京裁判)において判事を務め、同裁判の11人の判事の中で唯一、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)の作成者として知られている。
 パールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。“裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”という判断によるものである。
 パール判決書は、裁判官として「東京裁判において、日本を裁く法的地位は存在しない」他、日本を裁く法的根拠は無いという判断であり、パールの主観的な道義的判断や政治的、宗教的思想を主題とした物ではない。

 パールの「公平さ」を訴える考え方にオランダからのベルト・レーリンク判事も共感し、その影響を受けるようになっていった。また自らの個別意見書の発表も、パールが「反対意見」を公表すると主張した副産物であったとした。
 しかし、パール判決は、当時のインド政府の意思と一致していたわけではなく、あくまで個人の信念を貫いた物である。ネルー首相(当時)は、当初から東京裁判で、自己を曲げないパールに困惑しており、パール意見書に対しても非公式ではあるが「パールの意見書はあくまで一判事の個人的見解であり、インド政府としては同意できない箇所が多々ある」と不快感を示した。
 しかし、2006年12月14日、来日したマンモハン・シン首 相は日本の衆議院の国会演説で「戦後、ラダ・ビノード・パール判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。こうした出来事 は、我々の友情の深さと、歴史を通じて、危機に際してお互いに助け合ってきた事実を反映するものです」と公式に好意的な意見を述べている。

 その後の東京裁判の評価についての記載が、(http://www6.plala.or.jp/mwmw/kotoba.html)にある。

 マッカーサー創るところの「極東国際軍事裁判所条例」に基づき、いわゆるA級戦犯28人が起訴されたのは昭和21年4月29日(昭和天皇 の誕生日)、最後の「刑の宣告」が行われたのが11月12日であった。
 東條元首相以下7人(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井岩根、武藤章)が処刑されたのは12月23日(現天皇の誕生日)であった。つまり東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴し、当時皇太子であった今上天皇の誕生日を期して処断したのである。この一事をもってしても、いかに執念深い復讐のための裁判だったかがわかろう。

 だが、東京裁判が終わって2年後の昭和25年10月15日マッカーサーは、ウェーキ島においてトルーマン大統領に「東京裁判は誤りであった」旨を告白し て、すでにこの裁判の失敗を認めている。その翌年の5月3日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で「日本が第二次大戦に赴いた目的は、そのほとんどが安全保障のためであった」と、東京裁判で裁いた日本の侵略戦争論を全面的に否定しているのである。

 のちに、「この裁判の原告は文明である」と大見得を切ったキーナン主席検事も、あの傲慢なウエッブ裁判長も、この裁判は法に準拠しない間違った裁判で あったことを認める発言をしている。現在名ある世界の国際法学者で、東京裁判をまともに認める学者など一人もいない。パール判事の立論こそが正論であるとし、パールの名声は国際的に高まった。

 我が国は60有余年直接的な戦争に巻き込まれていない。案外賢い国なのかも知れない。
 アフリカのどこかの国の大統領が、国家レベルの喧嘩を「ボクシング」で決着しようと提案したニュースがあったような記憶がある。結構正しい判断なのかも知れない???
 日本なら「相撲」か?でもモンゴルなどとは勝負できない?

0 件のコメント: