2008年11月5日水曜日

久しぶりの京都にて

 
 最近どこかに出かける機会があれば、時間の許す限りなるべく街なかを歩き回ることを楽しみにしている。それは表通りであったり、裏通りであったり、横丁であったり。時間帯や場所によって行きかう人びとに違いがある。ただ、今のところ一応最終目的地付近とおおよそのタイムリミットは設定せざるを得ないのが残念な点ではある。  

 それは当てもなく歩きながら、どんな店が、どんな所に、昔ながらの建造物がーーと思い感じながら、その町の歴史、特徴、雰囲気を味わい想像するひと時となる。また、偶然の発見、出会いに期待するところも大である。

 特に気になるのは、1000年2000年の日本の歴史を有する街に、いわゆる海外ブランド物の店が幅を利かせているのを見るのがツライ。地下街店にでも留めて欲しいものだ。
 もっともっと歴史、特徴を生かした街づくりを、法制化してでもいいから心がけて欲しいと思うところが多い。そうしないと街の個性と魅力が失われ、どこも同じになる恐れがいたたまれない。初期投資はかかろうとも長い目で見れば、よほど永続的経済効果もあろうかと思う。

 そんなことを感じながら、狭い横丁を歩いていると、「京都市学校歴史博物館」なるものに行き当たった。まず目に付いたのが、校庭、校舎が保存されており、なんとなく自分の小学校時代の懐かしき雰囲気が漂ってきた。

 入館してビデオ案内に接してみると、明治維新後,首都が京都から江戸に移るという変革期に強い危機感を抱いた京都の人達が,さまざまな近代化政策を実施したとある。その一つが、明治2年に全国に先駆けて町衆が私財を出し合い、不足分は京都府等から借金をして学校を設立。
 その年の5月には最初の番組小学校が開校(番組とは、学校設立のために従来の自治組織を改組して作られた単位、日本で最初の学区制小学校)、12月には64校にまでなる。
 さらに番組制を活用して高等小学校、女学校、幼稚園と次第に対象を広げていった。

 また、教育だけでなく、自治会館や消防詰め所、警察、保健所や役所の出張所、金の貸し借りといった銀行業務や時報の知らせと多岐にわたった。当時義務教育制度は存在しないため、学校株式会社を設立しその事業収益を運営経費に充てていたという。

 このように、住民主導で革新的な教育システムを構築・実践し、さらに当時から女子教育にも目を向けていたことを知り、大変な驚きを覚え、その先見性に痛く関心した。今日のノーベル賞学者輩出にもつながる素地の醸成だったのかとも思いたくなる。

 館内案内と以下を参考にしました。
  http://www.gakurehaku-unet.ocn.ne.jp/index.html 
  http://homepage.mac.com/hiro_hon/2/2-213/2-213.html 


  2008.11.04朝の京都四条大橋からの鴨川の眺め

以下も見てください。
 http://picasaweb.google.co.jp/hiroaki.okuno/0811Kyoto?authkey=wFU05HekGAs#

 さらに、ちょうど上村松園の特別展が開催されていて、小生にとってはすばらしい発見がありましたが、後日改めて報告します。

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