2019年のノーベル化学賞、リチウムイオン電池開発の吉野彰ら3人に
(以下日経産業新聞に2011年6月21日~7月26日に連載された「仕事人秘録」を再構成)
電池が変える未来 旭化成名誉フェロー・吉野彰氏
*京都大学で量子有機化学を専攻し大学院に進んだ。研究内容は紫外線の照射反応などを調べる光化学で、光触媒のような材料の開発に役立てられるものだった。1960年に「サランラップ」を発売、70年代から住宅事業「へーベルハウス」を展開し、業容を拡大中だった旭化成に72年に就職する。歴史のある企業でありながら野武士的な雰囲気が気に入ったのだと思う。
同期は350人ほど。私はその中でも数名しかいない大学院卒の研究開発職だった。20代だったころの研究は失敗の連続だったが、そのつど将来に生かせる経験を身に付けることができた。そうしたなか、81年にチャンスが巡ってくる。
2000年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹・筑波大学名誉教授が80年代に発見した電気を通すプラスチック、ポリアセチレンを応用し、素材を開発する研究が始まったのだ。私は33歳。研究部門の係長になっていた。「やっと当たりくじをひけた」と直感した。
ポリアセチレンの性質を分析したところ、最も有望と感じたのは電池としての用途だった。充電することで繰り返し使用できる「2次電池」の材料に向いているのではないかと思った。80年代に入りビデオカメラなど電子機器の「ポータブル化」が新製品のキーワードになり始めていた。今と比べたらまだ大きくて不便な製品が多かったが、高電圧を発生できる電池があれば製品をもっと小型化できる。新素材を活用する好機だと思った。
高電圧を実現するには、水を電解液に使う乾電池や鉛電池だと限界がある。水の代わりに有機溶媒を使う非水系電池にする必要がある。81年当時、非水系で既に存在していたのは金属リチウム電池。ただし弱点があった。金属リチウムは1次電池、つまり「使い捨て」なのだ。金属リチウムは敏感に化学反応する。充電を繰り返す2次電池に使う場合、発火事故のリスクが大きい。私は金属リチウムの代わりにポリアセチレンを電極に使いたいと考えた。研究を進めるうちに、無水状態に置くと極めて安定する物質であることに気付いた。金属リチウムで問題になった安全性という大きな課題をクリアできる予感が高まってきた。
電池の構造を極めて単純化して説明すると、内部に負・正2つの電極があり、負極から正極へ電子を渡す。この時、逆の向きに電流が起きる。電池の性能のカギを握るのは負極。そこにポリアセチレンを使うという発想で研究を始めた。ポリアセチレンの製造工程や電解液純度を改良し、材料の性能も当初より格段に上がってきた。だが、喜ぶのはまだ早かった。いざ電池の試作となれば、正極が必要になる。ところが、ポリアセチレンの相方として使える電極材料がみつからないのだ。
研究を始めて1年たった82年12月。このまま年を越すのかと気分が重かった年末のある日、午前中に職場の大掃除があり、午後はやることがなくなった。取り寄せたまま手つかずだった海外の研究文献を何となく読み始めたら、思いがけない論文と出会った。
当時、英国のオックスフォード大学で研究していた米国のジョン・グッドイナフ教授が、80年に発表した論文で「コバルト酸リチウム」というリチウムイオン含有金属酸化物が2次電池の正極になると書かれている。しかも従来の材料より高い電圧をつくれるという。続いて「組み合わせるべき適切な負極がない」と記されていた。
ひょっとしたら私が負極にしたいポリアセチレンと組み合わせられるのでないか。83年1月、論文に書かれていた通りのコバルト酸リチウムを実際に作ってみた。ポリアセチレンと組み合わせ電池を試作する。充電できた。放電もうまくいく。旭化成に入社して10年。待ちに待った研究の大成功だった。
こうして生まれたリチウムイオン電池だが、あくまで「原型」だった。研究を進めるうちに負極のポリアセチレンの欠点が明らかになる。ポリアセチレンは高温状態で保存する際に劣化しやすかった。おまけに比重が小さい。つまり、軽くてかさばるのだ。電池の軽量化だけが目的なら問題ない。だが、小型化を実現するには比重の小ささは致命的だった。
待ち望んだ正極にコバルト酸リチウムが見つかって喜んでいたが、今度は負極の材料探しをやり直さなければならなくなった。ポリアセチレンと同じ特徴を持つ分子構造の化合物としてカーボン(炭素材料)が思いあたる。電気を通す性質があり期待したが、当時入手できたカーボンはどれも使い物にならない。
新しい材料は社内から現れる。繊維メーカーの歴史が長い旭化成は84年、宮崎県延岡市の研究所で当時注目され始めていた炭素繊維を研究していた。ガスを気体のまま炭化させて、基板上に炭素繊維を成長させる。こうすると繊維直径が0.1ミクロンという極めて細い炭素繊維ができるのだった。
製造方法の特徴から「気相成長法炭素繊維(VGCF)」と名付けられたこの素材は、負極としてずばぬけて高い性能を示した。85年、VGCFの負極にコバルト酸リチウムの正極を組み合わせた電池を試作。充電することに成功した。研究開始から4年。やっと現在使われているものとほぼ同じ構造のリチウムイオン電池が誕生した。
90年代は携帯電話や小型ビデオカメラが出回り始めたころ。消費者向け製品を製造する大手電機が先鞭(せんべん)をつける形でリチウムイオン電池の生産が始まった。旭化成はメーカーが使う材料作りを強みとしてきた企業。エレクトロニクス関連で最終製品を製造した経験が少なかった。販売ルートもない。そこでパートナーとなる有力企業を探した。
92年、東芝と折半出資でリチウムイオン電池開発・製造のエイ・ティーバッテリー(ATB)を設立。ソニーや他の新規参入企業との間で電池の小型・軽量化を競い合うことになった。事業は思い描いていたとおりに進まなかった。旭化成は8年後の2000年に、電池材料の開発・製造に専念するため東芝にATBの全株式を引き取ってもらった。東芝も04年にリチウムイオン電池から撤退。ATBの生産設備は三洋電機が買い取った。
旭化成がATBの経営から手を引いたのはちょうどITバブルのピーク。やがてバブルがはじけ、01年9月の米同時多発テロを機に世界経済が減速する。リチウムイオン電池の市場も一時的に冷え込んだ。だが、電子機器の小型化・高性能化の流れは変わらず、高性能電池の需要の見通しは明るかった。
ATBを通じてリチウムイオン電池の生産を続けている間も、旭化成では材料の開発・改良を絶えず進めていた。その中で順調に伸び始めていたのが中核部品の一つであるセパレーター(絶縁材)だった。やがてこの部品が旭化成の収益拡大に貢献するようになる。
合成樹脂の膜であるセパレーターは電池内部で正極と負極を遮断するが、完全に遮断してしまうとリチウムイオンが電極間を移動できない。電池を機能させるには、非常に微細な穴を開けておかなければならない。加工が難しいが、旭化成には技術の蓄積があった。
80年代、大量の純水を使う半導体工場などで水をろ過する特殊な膜の開発を進めていた。技術を応用し、高密度ポリオレフィン微多孔膜製品「ハイポア」を開発。80年代後半から1次電池に採用されていた。90年代にはリチウムイオン2次電池用のハイポアを発売。電極間のリチウムイオン透過効率が高く、多くのメーカーが採用した。
旭化成は2000年、電池生産から撤退する一方でハイポアの生産設備を増強した。セパレーター市場で旭化成は現在まで世界シェア首位を維持する。エネルギーの変革とEVは電池の巨大な市場を生む。勝ち続けていくにはどうしたらよいか。これからも挑戦を続けるつもりだ。 2019/10/10 2:00日本経済新聞 電子版
0 件のコメント:
コメントを投稿