2009年7月3日金曜日

我々が知っておいたほうがよい歴史的事実――感謝される人情の日本史

 いい話は(悪い歴史事実も)、義務教育レベル(中学)の歴史で積極的に教えたほうがいいでしょうに――。評価・判断は生徒・学生に委ねればいい。

 エルトゥールル号遭難慰霊碑
(和歌山県串本町)  その1、1914年熊野灘で難破したトルコの軍艦エルトゥールル号の生存者を救出し、祖国に送り届けてくれた日本への感謝――トルコでは長く教科書で語り継がれてきた。 
そのため1985年イラン・イラク戦争時に取り残された邦人を、自国民の脱出に優先して、飛行機を飛ばし救出した。
(ブロガー注:1890年(明治23年)9月16日夜半、エルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし、沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明になる大惨事となった。
このとき、樫野埼灯台下に流れ着いた生存者は、数十メートルの断崖を這い登って灯台に遭難を知らせた。灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は、浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めた。知らせを聞いた明治天皇は、政府として可能な限りの援助を行うよう指示し、樫野の寺、学校、灯台に収容され救出された69名が、翌年1月2日イスタンブールに送り届けられた。)

 その2、ドイツ兵捕虜を「祖国のために戦った」と讃えた日本人将校――ベートーベンの第9番が日本で初めて演奏されたのは、第一次大戦下1918.6.18、「板東俘虜収容所」(現鳴門市)。「俘虜文化」開花の陰に、収容所所長・松江豊寿(中佐)の存在があった。「彼らも祖国のために戦った」と讃え、軍上層部からの度重なる批判にも屈せず、己の信念のまま捕虜たちと接し続けた。解放にあたり捕虜の一人は「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちより不幸な人に会えば、あなたが示された精神で臨むでしょう」と挨拶した。1972年多くの元捕虜たちからの寄付や資料の提供を受けて「鳴門市ドイツ館」が完成した。

 その3、「日本のシンドラー」・イスラエルの好日感情――1940年第二次大戦下のリトアニアで領事代理を務めていた杉原千畝は、ナチに迫害されるユダヤ人の求めに応じて、日本の通過ビザを発行した。杉原の英断で6,000人を超えるユダヤ人が生き延びた。ただし日本外務省における本人の名誉回復は、実に、1992年であった(すでに鬼籍に入っていた)。
 (ブロガー注:オスカー・シンドラーは、オーストリア・ハンガリー帝国のメーレン(現チェコ)生まれのズデーテン・ドイツ人の実業家。第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救ったことで知られる。)

 インドネシアの独立記念日には男女2人に日本軍の格好をした3人で国旗を掲揚します    その4、インドネシアで語り継がれる日本植民地時代――オランダを駆逐し、教育改革を実施。わずか1年足らずで、多くの子供が学校に通えるようになった。さらに、インドネシアは4年5か月におよぶオランダとの独立戦争(1945-1949)を勝ち取ったが、実はこの戦いに2,000人もの日本人義勇兵が身を投じていた。
(以上、最近号のSapioから要約および追加)

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