2016年5月29日日曜日

宇宙の新居住棟

宇宙の新居住棟、膨らむ 風船型、NASAが試験
*NASAが国際宇宙ステーションで試験を実施した、風船のように膨らむ新型の居住棟「BEAM」(NASAテレビから・共同) NASAが国際宇宙ステーションで試験を実施した、風船のように膨らむ新型の居住棟「BEAM」(NASAテレビから・共同)
【ワシントン共同】米航空宇宙局(NASA)は28日、宇宙空間で風船のように膨らむ新型の居住棟「BEAM」の試験を国際宇宙ステーションで実施した。空気を入れ、直径約3メートル、長さ約4メートルのたるのような形に膨らませた。
 7時間かけ、断続的に25回にわたって少しずつ空気を入れると、居住棟はパチパチと音を立てながら膨らんだ。今後約2年かけ、人体に有害な放射線を遮ることができるかどうかや、耐久性などを調べる。飛行士も短時間ながら中に入る予定だ。
 繊維素材でできており、すべてを頑丈に造るより大幅に軽量化できる。地球から運び出す際は小さく折り畳み、宇宙で大きなスペースを得られるのが特長という。

 26日に試験を行ったが、予定通り膨らまないトラブルに見舞われ、中断していた。壁を構成する繊維の摩擦が原因とみられ、調査の結果、NASAは空気を入れ続けても問題ないと判断した。産経2016.5.29のニュース

2016年5月27日金曜日

オバマ米大統領、広島を訪問

オバマ米大統領、広島を訪問 現職で初
広島(CNN) オバマ米大統領は27日、被爆地広島を訪れた。現職の米国大統領が同地を訪れたのは初めて。
オバマ大統領は平和記念公園で「71年前、雲のない快晴の朝、空から死が降ってきて、世界が変わった」「閃光(せんこう)と火の壁が町を破壊し、人類が自分を破壊する手段を手にしたことを証明した」と語った。
「なぜ広島に来たのか。我々はそう遠くない過去に放たれた恐ろしい力を考えるために来た」
オバマ大統領は悲しみや遺憾の意を示したが、謝罪には至らなかった。演説前には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた慰霊碑に献花も行った。
広島平和記念資料館も訪れたオバマ大統領は、世界が「勇気を見つけ、平和を広め、核兵器のない世界を追求する」ことを希望するとの記帳を行った。

数万人が死亡した被爆地訪問は、ホワイトハウスで6年以上にわたり準備されてきた。今年初めにはケリー国務長官も訪問していた。2016.05.27 Fri posted at 18:29 JST

2016年5月21日土曜日

札幌ライラックまつり

札幌ライラックまつり

 
知人を介して送られてきました。懐かしいです。立派にゴージャスに育っています。春の大通公園の雰囲気が見事に伝わってきます。
 

CO2濃度400ppm超え

全大気のCO2濃度、危険水準に 初の400ppm超え
 環境省と国立環境研究所、宇宙航空研究開発機構は20日、温室効果ガス観測技術衛星「いぶき」で観測した地球大気の二酸化炭素(CO2)濃度が、昨年12月に月平均で400・2ppmに達したと発表した。地表から上空約70キロまでの大気全体を観測できる衛星のデータで400ppm超えが確認されたのは初めて。

 国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、産業革命前からの気温上昇を2度未満に抑える国際目標の達成には450ppm程度にとどめる必要があるとしている。400ppm超えは危険な水準だ。上空より濃度が高くなる地上の観測に基づく世界の月平均濃度は、すでに400ppmを超えている。いぶきの観測で、濃度上昇が上空を含む大気全体で続いていることが確かめられた。

 観測では濃度は年約2ppmずつ上昇しており、この傾向が続けば年平均濃度も今年中に400ppmを超えるという。国立環境研の横田達也フェローは「温暖化の影響が出るのはずっと将来と思われているが、そんなに先ではない」と話す。(小堀龍之)20165210522分 朝日

 (蛇足:小生が関心を持って調べていた30余年前は 340ppm 程度でした)

2016年5月12日木曜日

H28春の叙勲

H28春の叙勲
*この度平成28年春の叙勲に際し、思いがけずも
「瑞宝小綬章」(The Order of the Sacred Treasure, Gold Rays with Rosette)を授与されました。

伝達式後、家内ともども参内し「豊明殿での拝謁」という貴重な経験をさせて頂きました。

ひとえに多くの皆様方のお力添えの賜物と深く感謝いたします。どうもありがとうございます。
 右、ご報告いたします。



2016年5月10日火曜日

アドラーのことば

アルフレッド・アドラーのことば
ほんの一例です。
時代の要請なのか、「共同体感覚」の再認識か、なぜか今、注目されているオーストリア出身(1870 - 1937)の精神科医、心理学者、社会理論家。フロイトおよびユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人といわれる。 早速話題の本の図書館予約を入れましたが、なんと80人待ちでした(蔵書数8冊とあるので意外と早いか?)。

*『「よくできたね」とほめるのではない。「ありがとう、助かったよ」と感謝を伝えるのだ。
感謝される喜びを体験すれば、自ら進んで貢献を繰り返すだろう』

*他人からの賞賛や感謝など求める必要はない。
自分は世の中に貢献しているという自己満足で十分である。

*問題の原因などどうでもいい。
大切なのは解決策とこれからどうしたいかだ。

*幸せの三要素は自分自身が好きかどうか。
よい人間関係を持っているかどうか。
そして、人や社会に貢献しているかどうか。
過去を後悔しなくていい。
未来に怯えなくていい。
そんなところを見るのではなくいまこの時に集中しなさい。

*判断に迷ったらより多くの人間に貢献できる方を選べばいい。
自分よりも仲間たち仲間たちよりも社会全体。
この判断基準で大きく間違うことはまずないだろう。

*行動するたびに叱られ、褒められて育った人間は
叱られるか褒められるかしないと行動しなくなる。
「よくできたね」と褒める必要はない。
ただ「ありがとう」と感謝を伝えるだけでいい。
感謝される喜びを知れば自ら進んで周囲に貢献しようとする人間になる。

*子供にとっては家族が世界のすべてなのだ。
親に愛されなければ死ぬしかない。
だから子供たちは全力で親に愛されようとする。
そのときとった命がけの戦略がそのまま性格形成につながっていく。

2016年5月9日月曜日

中村家古書画コレクション

中村家古書画コレクション
 もう一つご紹介させてください。
ひょっとすると第50代桓武天皇【在位:天応元年43日(781430日)― 延暦25317日(80649日)】にさかのぼるお家柄の可能性がある中村家です。
「サロン中村古書画コレクション」として資料公開しています。まずは、以下の開設趣意書をご覧いただきたいと思います。 

「サロン」開 書 (HPより)
サロン――中村古書画コレクション約三〇〇点の古書画には、国宝・重文級はもちろん、極めの付せられた格別のお宝と言えるようなものはほとんど存在しない。ただ人の目に触れさせてもらえるものなら、それなりのレベルで、時には史料として、また、時には芸術として、それなりの存在意義を認められないものでもあるまい――要するに、宝の持ち腐れに陥るの愚だけは何としても忌避したかったというのが、主宰として、その主宰たるべき決断をすることにも含めた「サロン」開設の趣意である。

詳述するなら、本コレクションは、主宰自身の収集も合わせた当中村家四代およそ二〇〇年間に渉る古書画収集のすべてである。
二十三代=萬五郎政敏(神道無念流剣士中村有道軒一世――万延元年没・享年七十七歳)
二十四代=七郎右衛門正廸(中村有道軒二世――明治二十九年没・享年七十三歳)
*二十五代=重太郎(大相模村初代村長――昭和十六年没・享年七十一歳)、(銅像)
二十六代=壽馬
二十七代=穎司(本サロン主宰)が、その間の当主になる。

今日に至るまで御当地――大相模郷の開拓者としてほぼ千年に近い歴史を刻みつつある当家に、つまり、二十二代以前に床の間を飾るべき「古書画」の一幅も存在しなかったはずもなかろうが、そのこととは別に、弟子千人を抱えて、なお全国を股にかけての剣の修行を重ねることを怠らなかった二十三代の、深遠測りがたい人脈と声望とが、おのずと貴重なものの多くを身近に寄らしめていたであろうことも想像に難くない。
二十四代は、口伝によれば、幕末から維新を生きた名立ての趣味人。奢侈を誡めた当家の家風はそのまま承け継ぎながら、剣の衰退――武士にはやる瀬ない時流の捌け口として、江戸を中心とした多くの文化人との交流に、せめてもの生甲斐を見ていた由である。
二十五代は、馬鹿なことを始めおっての一言を残して、太平洋戦争勃発の翌日に他界する。明治末期から昭和前期に及んだ、大きな世界を睨んだ小さな国の、未曾有の喧噪の只中を、政治家として、また、文化人として、その世相に義理立てすることだけは全うした、人呼んでの損長さん――一面木偶のごとくにも見られた無欲の村長であった。

さて、当家は、二十六代=壽馬(昭和十四年没・享年三十四歳) 逆順の早逝といわゆる敗戦がもたらした長い混迷の時を経て、昭和三十九年、長い歴史を刻んだ旧屋の一部 (明治四十三年築=現客間) を残して全面改築 (平成元年一部増築=現母屋)、同時に、伝承の古書画も修理・修復(新装) に取り掛かることになる。前記三代の全く与り知らない、二十七代――主宰の独断による秘かな目論みのスタートであるが、爾来ほぼ四十年、本コレクションの試みにはまた、秘かに、小類聚群の形式による公開展示の目論みまでもが含ませられていたことから、主宰たるべき立場としての新たな収集は、専ら、その欠落の最低限での補填に終始した。この間、軸装・額(和)装に関する修理・修復(新装)を要したもののほとんどは、江原小林堂・江原史雄表具師(越谷市大沢四―十五―二一)の手になること、 また、同氏より、手彫りされた看板をご寄贈いただいたことを、付言しておきたい。

ところで、本「コレクション」の対象は、あくまでも軸装・額()装になる「古書画」である。その基準は、これもまた主宰の独断、つまり今日でもなおその筋の権威の揺るがない『大日本書画名家大鑑』(復刻版・第一書房刊)収録作家の作品を下限とすることが原則になる。当該書籍の刊行は昭和九年であるから、当該作家は、その時点で、既に、その作家活動に一応の評価を得ていたわけで、 したがって、少なくとも明治生まれの作家の作品を下限とすると言い換えることもできるかもしれない。

もう一つ、 展示作品の真贋についての基準は、鑑識の責を負えない主宰の立場では、にせものをにせものと知って収集するコレクターは存在しないとの常識の線からご寛容いただく外に仕方がない。もちろん、厳しい目による、然るべき教唆を拒むものでないことは言うまでもない。

最後に、本コレクションは、古書画の公開展示が建前であるとは言え、主眼とするところは、むしろ、人と人との、偶然の、ささやかな出会いがもたらす、人と人とのささやかな心の交流――そこに開かれていくはずの、人々の語らいを通した安らぎの場を供させていただくことである。サロンの名を冠せてみた所以でもある。展示空間は、当家の日常の生活空間でもあることから、この種のものとして狭小に過ぎるかとも思えるので、ぜひとも庭にまで降りていただき、その中を、その周辺を、ご自由に、お歩きいただくことも、「古書画」をご覧いただくことに合わせてのお願いとして添えておきたい。ちなみに、何の変哲もない粗野な庭ながら、昭和六十三年・越谷市指定の天然記念物――推定樹齢三〇〇年の中村家のクスノキがある。(主宰 ―― 平成十四年四月十日記)

ちなみに、当家代々は「桓武天皇」を(1)として、初代「大相模次郎能高」を(13)とすれば、本「サロン」主宰=27代「頴司」をもって(39)を数えることになる【大相模氏系図(内閣文庫蔵「諸家系図纂 (3)野与党」参照)による

――
実は中村家は遠縁の親戚(いとこの嫁ぎ先)にあたります。
先日「いとこ」が越谷に参集し、第27代現当主自らのご案内で、越谷の歴史に始まり、1000年に及ばんとする中村家歴史資料、大相模次郎能高(大相模家初代:史料が残る中村家初代)の時代考証、幕末の神道無念流名剣士第23代中村有道軒一世、および第24代同二世、第25代重太郎関係史料に加え、過去200年にわたり収集された中村家古文書コレクションのお話しを直接伺うことができました。
 膨大にして極めて貴重なコレクションは、当主の優れて綿密な時代考証、深い造詣、ご努力を経て整理され、常設展示と月替わり展示で公開されています。

史料一点をとっても、そこに連なる歴史を考えさせられ大変興味をそそられ感動ものでした。とても一度や二度の訪問ではカバーできません。何度も訪れたいと思いました。

2016年5月8日日曜日

超新星爆発の記録を新たに発見

歴史上最も明るい超新星爆発の記録を新たに発見
「最初のうちはわずかに緑がかった黄色」に輝く、中東の古文書から
NASAX線観測衛星チャンドラが捉えた超新星SN1006の残骸。西暦1006年には地上から肉眼で見えるほど明るかった。

 それは記録に残すのにうってつけの天体ショーだった。西暦1006年の4月に明るい星が突然現れ、徐々に暗くなり、数カ月後に見えなくなった。この天体は地球から7200光年も離れたところにあるにもかかわらず、ピーク時には金星より明るくなったという記録もある。
 目撃証言は、アジア、中東、ヨーロッパの文書のほか、おそらく北米の岩絵にも残された。日本でも藤原定家が『明月記』にこの「客星」のことを書いている。こうした記録のおかげで、今日の天文学者はこの天体の正体がSN1006という超新星だったことを知っている。

 そしてこのたび、古文書の調査をしていた天文学者たちが、これまで知られていなかった2編の記録を発見し、有史以来最も明るい超新星爆発の物語に一石を投じた。

 ドイツ、フリードリヒ・シラー大学イエーナの天体物理学者ラルフ・ノイホイザー氏は、ペルシャの科学者イブン・シーナー(9801037年)の著作を調べていた。欧米ではアビセンナとして知られるイブン・シーナーは、各地を旅行し、天文学から医学まで幅広い分野にわたる著作を残した。
 その『治癒の書』には、医学のみならず自然科学や哲学に関する記述もある。そのなかに、突然現れたと思ったら、色を変え、「火花を散らして」消えてしまった天体に関する記録がある。ノイホイザー氏らによると、長らく彗星についてのものだと誤解されていたこの記述が、今回、超新星SN1006の観察記録だったことが明らかになった。イブン・シーナーがこの天体を観察したのは、彼が現在のイラン北部にあたる地域に住んでいたときのことだったと考えられる。(以下略)2016.05.06 ナショジオ 


長江家住宅  京都市指定有形文化財

長江家住宅
 京都市指定有形文化財

<長江家住宅概要>
下京区新町通綾小路通下ル船鉾町に位置し、中二階型の主屋を南北二棟持つ大型京町家。
長江家は1822(文政5)年に転居し、現在の北棟の土地に店舗兼住居を構えた。1864(元治元)年、禁門の変により当時の主屋は焼失するが、1868(慶応4)年に現在の北棟が再建され、その後1905(明治40)年に南棟が新築され、現在の姿になった。
代々呉服の卸を営んでおり、建物だけでなく明治以降の商い道具や生活用品等、貴重な品々が大切に受け継がれている。職住一体型の典型的な町家の佇まいを今に伝える数少ない京町家である。
2005(平成17)年に京都市指定有形文化財(建造物)に指定された。建物は間口7間、奥行30間、面積200坪(700平米)余。
現在は、主屋南棟や化粧部屋などを一般公開(予約制、一部非公開)している他、催事会場として、撮影や展示会、お茶会などにご利用いただいています。

*戦前頃の長江家住宅外観

長江家住宅の歴史
文政5(1822)年、長江家三代目の大坂屋伊助が袋屋町(現下京区船鉾町)に入町し、現在の主屋北棟部分35坪の土地家屋を買得しました。以後、その地で代々呉服卸商を引き継いできました。しかし、五代目の頃、元治元(1864)年、禁門の変による京都大火で家屋はすべて焼失してしまいました。
その後、慶応4(1868)年に主屋が再建(現北棟主屋)され、明治8(1875)年には、その背面裏地に大蔵が移建されます。
明治39(1906)年、六代目長江伊三郎が南隣地を取得し、同40(1907)年、同地に表屋造の主屋南棟、離れ座敷などを新築、新蔵を移建しました。その後、大正4(1915)年に、化粧部屋、浴室が新築され、現在の姿に至ります。それに伴い、職住機能の大半を南棟に移し、以降、江戸時代より86年間店舗兼住宅としていた北棟は、隠居所として利用されるようになります。現在も当時の姿を変えることなく大事に受け継いでいます。(HPより一部抜粋)(写真提供:立命館大学)

―― 
実は長江家は遠縁の親戚(いとこの嫁ぎ先)にあたります。あの歴史ある由緒正しき京都にあっての「文化財」、なんと素晴らしいことか。一方、個人での維持管理が課題になるのは大きな課題ですが。

2016年5月6日金曜日

薬種商の館 金岡邸

国登録有形文化財
薬種商の館 金岡邸

 
金岡邸は、300年の歴史をもつ富山売薬業に関する資料を中心に、薬業全般にわたる多くの資料が保存展示され、国内でもまれな薬業資料の館です。母屋部分は明治初期の商家で、薬種商店舗の遺構をとどめており、新屋部分は、伝統的木造建築の特徴が生かされた総檜造りの建物で、豪壮で格調の高い折上げ格天井の座敷を有しています。
 資本家として力のあった薬種業者たちは、富山県内各地に金融機関をはじめ広い分野に投資し、県・産業の育成に大きく貢献しました。
 
金岡家は江戸末期より薬種商を営み、家祖金剛寺屋又右衛門の長男金岡又左衛門は、若くして県議会議長、衆議院議員を歴任しました。全国でもいち早く電気事業に注目し、明治32年(1899)に大久保発電所を完成し、北陸で初めて電灯をともし、多くの水力発電所を建設しました(現北陸電力株式会社)。大正2年(1913)に北陸初の電鉄の工事を完成し(富山軌道株式会社)、大正11年(1922)には常願寺川の治水につとめ、砂防工事を国営事業に組み入れる道を開きました。特筆すべきはこの水力・電力を基礎に多くの産業を誘致して富山県の経済基盤の土台づくりを成し遂げ、他方、私財を育英事業に投じました。
 二代目又左衛門は戦後、第一薬品株式会社や富山合同無尽株式会社(現富山第一銀行)を設立しました。
 三代目又左衛門は、テイカ製薬株式会社や富山女子短期大学を創立し、富山相互銀行を経営し、富銀奨学財団を設立しました。
 五代目金岡幸二は情報産業のパイオニア、富山計算センター(現インテック)(1964)を設立し、全国屈指のコンピューター企業(ITHD)に育て、また富山国際大学を設立しました。
 六代目当主金岡祐一は、北大教授、日本薬学会頭、日本学術会議第七部長、富山国際学園理事長、富山短期大学学長、富山国際大学長などを歴任し、さらに第一薬品をテイカ製薬へ合併しました。
 その弟、金岡純二は、富山第一銀行を確立しました。
 このように、金岡家は、歴代薬種商時代の資本を元に、富山県の経済界に、力強い足跡と業績を残しています。 (HPより一部抜粋)

 ――
実は金岡祐一先生は大学の恩師にあたります。
2007年日本薬学会年会が富山で行われた際には、ご実家であった「金岡邸」を先生自ら、我々「悪童」に案内して下さいました。決して忘れることのできない素晴らしい思い出を作ってくださいました。
上記にもありますように、先生は東大、米国留学を経て、北海道での薬学教育に尽力され、世界への研究成果発信、富山県の産業・経済発展、教育活動、さらに、日本の薬学会や学術会議のリーダー、そして世界中でのご活躍――などなど我が国が誇るべき先生なのです。

ごく最近、先生の米寿のお祝いにお招き頂き元気なお姿と変わらぬシャープなお話しぶりを伺う機会がありました。