中村家古書画コレクション
もう一つご紹介させてください。
ひょっとすると第50代桓武天皇【在位:天応元年4月3日(781年4月30日)― 延暦25年3月17日(806年4月9日)】にさかのぼるお家柄の可能性がある中村家です。
「サロン中村古書画コレクション」として資料公開しています。まずは、以下の開設趣意書をご覧いただきたいと思います。
「サロン」開 設 趣 意 書 (HPより)
サロン――中村古書画コレクション約三〇〇点の古書画には、国宝・重文級はもちろん、極めの付せられた格別のお宝と言えるようなものはほとんど存在しない。ただ人の目に触れさせてもらえるものなら、それなりのレベルで、時には史料として、また、時には芸術として、それなりの存在意義を認められないものでもあるまい――要するに、宝の持ち腐れに陥るの愚だけは何としても忌避したかったというのが、主宰として、その主宰たるべき決断をすることにも含めた「サロン」開設の趣意である。
詳述するなら、本コレクションは、主宰自身の収集も合わせた当中村家四代およそ二〇〇年間に渉る古書画収集のすべてである。
二十三代=萬五郎政敏(神道無念流剣士中村有道軒一世――万延元年没・享年七十七歳)、
二十四代=七郎右衛門正廸(中村有道軒二世――明治二十九年没・享年七十三歳)、
*二十五代=重太郎(大相模村初代村長――昭和十六年没・享年七十一歳)、(銅像)
二十六代=壽馬
二十七代=穎司(本サロン主宰)が、その間の当主になる。
今日に至るまで御当地――大相模郷の開拓者としてほぼ千年に近い歴史を刻みつつある当家に、つまり、二十二代以前に床の間を飾るべき「古書画」の一幅も存在しなかったはずもなかろうが、そのこととは別に、弟子千人を抱えて、なお全国を股にかけての剣の修行を重ねることを怠らなかった二十三代の、深遠測りがたい人脈と声望とが、おのずと貴重なものの多くを身近に寄らしめていたであろうことも想像に難くない。
二十四代は、口伝によれば、幕末から維新を生きた名立ての趣味人。奢侈を誡めた当家の家風はそのまま承け継ぎながら、剣の衰退――武士にはやる瀬ない時流の捌け口として、江戸を中心とした多くの文化人との交流に、せめてもの生甲斐を見ていた由である。
二十五代は、馬鹿なことを始めおっての一言を残して、太平洋戦争勃発の翌日に他界する。明治末期から昭和前期に及んだ、大きな世界を睨んだ小さな国の、未曾有の喧噪の只中を、政治家として、また、文化人として、その世相に義理立てすることだけは全うした、人呼んでの損長さん――一面木偶のごとくにも見られた無欲の村長であった。
さて、当家は、二十六代=壽馬(昭和十四年没・享年三十四歳) 逆順の早逝といわゆる敗戦がもたらした長い混迷の時を経て、昭和三十九年、長い歴史を刻んだ旧屋の一部 (明治四十三年築=現客間) を残して全面改築 (平成元年一部増築=現母屋)、同時に、伝承の古書画も修理・修復(新装) に取り掛かることになる。前記三代の全く与り知らない、二十七代――主宰の独断による秘かな目論みのスタートであるが、爾来ほぼ四十年、本コレクションの試みにはまた、秘かに、小類聚群の形式による公開展示の目論みまでもが含ませられていたことから、主宰たるべき立場としての新たな収集は、専ら、その欠落の最低限での補填に終始した。この間、軸装・額(和)装に関する修理・修復(新装)を要したもののほとんどは、江原小林堂・江原史雄表具師(越谷市大沢四―十五―二一)の手になること、 また、同氏より、手彫りされた看板をご寄贈いただいたことを、付言しておきたい。
ところで、本「コレクション」の対象は、あくまでも軸装・額(和)装になる「古書画」である。その基準は、これもまた主宰の独断、つまり今日でもなおその筋の権威の揺るがない『大日本書画名家大鑑』(復刻版・第一書房刊)収録作家の作品を下限とすることが原則になる。当該書籍の刊行は昭和九年であるから、当該作家は、その時点で、既に、その作家活動に一応の評価を得ていたわけで、 したがって、少なくとも明治生まれの作家の作品を下限とすると言い換えることもできるかもしれない。
もう一つ、 展示作品の真贋についての基準は、鑑識の責を負えない主宰の立場では、にせものをにせものと知って収集するコレクターは存在しないとの常識の線からご寛容いただく外に仕方がない。もちろん、厳しい目による、然るべき教唆を拒むものでないことは言うまでもない。
最後に、本コレクションは、古書画の公開展示が建前であるとは言え、主眼とするところは、むしろ、人と人との、偶然の、ささやかな出会いがもたらす、人と人とのささやかな心の交流――そこに開かれていくはずの、人々の語らいを通した安らぎの場を供させていただくことである。サロンの名を冠せてみた所以でもある。展示空間は、当家の日常の生活空間でもあることから、この種のものとして狭小に過ぎるかとも思えるので、ぜひとも庭にまで降りていただき、その中を、その周辺を、ご自由に、お歩きいただくことも、「古書画」をご覧いただくことに合わせてのお願いとして添えておきたい。ちなみに、何の変哲もない粗野な庭ながら、昭和六十三年・越谷市指定の天然記念物――推定樹齢三〇〇年の中村家のクスノキがある。(主宰 ―― 平成十四年四月十日記)
ちなみに、当家代々は「桓武天皇」を(1)として、初代「大相模次郎能高」を(13)とすれば、本「サロン」主宰=27代「頴司」をもって(39)を数えることになる【大相模氏系図(内閣文庫蔵「諸家系図纂 (3)野与党」参照)による】。
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実は中村家は遠縁の親戚(いとこの嫁ぎ先)にあたります。
先日「いとこ」が越谷に参集し、第27代現当主自らのご案内で、越谷の歴史に始まり、1000年に及ばんとする中村家歴史資料、大相模次郎能高(大相模家初代:史料が残る中村家初代)の時代考証、幕末の神道無念流名剣士第23代中村有道軒一世、および第24代同二世、第25代重太郎関係史料に加え、過去200年にわたり収集された中村家古文書コレクションのお話しを直接伺うことができました。
膨大にして極めて貴重なコレクションは、当主の優れて綿密な時代考証、深い造詣、ご努力を経て整理され、常設展示と月替わり展示で公開されています。
史料一点をとっても、そこに連なる歴史を考えさせられ大変興味をそそられ感動ものでした。とても一度や二度の訪問ではカバーできません。何度も訪れたいと思いました。