2011年10月30日日曜日

ベビーシッティング

ベビーシッティング
 信頼の証か有難く名誉なことに孫息子のケアを任される。ホノルルという異国の地にあって助っ人なしの本番9時間の長丁場。
もちろんおおよそのタイムテーブルがあり、何時頃どうする、そのあと1時間ぐらいガーデン散歩、その後空腹を察知したら食事、昼寝の時間確保、香ってきたらおしめの取り換え、給水をマメに、様子を見ながらおやつを与える等々結構変化に富んでいて、こなすべきことは山のようにある、しかも臨機応変さも求められる。

 前日のリハーサルは4時間無事に切り抜けたとしても、何せすべてはVIPのご機嫌次第。
 ベビーシッター歴皆無に等しいど素人・初心者・半人前が奮闘努力する。安全第一、怪我のないようにが至上命令。常に動きを把握する緊張の連続。トイレに行ってもドアは開けっ放し。好奇心旺盛な1歳半のチビちゃんは、のこのこついてきて覗き込む。後学のためにおしめがとれたらこうやってするんだよと教える。今や「車は直ぐには止らない」状態(多分)で、あまりに近寄り過ぎてもいけないのでどうしてもブロックをかけて変則態勢になる。

 VIPが発熱でもしたらさらに大変だろう、ちょっとぐずっただけで、熱があるんではないか上がるんではないかと気が気ではない。そうなったらどこのタイミングで連絡するんだろう。
 こんなことは世のママ達には日常的にごく当たり前にやっていることだと云われるであろうが、ママ稼業は、特に仕事を持つママは並大抵ではなかろう。母は強い、凄いと感心しきり、大変さの一端を痛感している。
 可愛い可愛いと云って、良いとこ取りしているうちが華だ。

 いっそかつての日本の世界、外は土と野原、家に入れば畳敷き――が優れた体制に思われてくる。時代の先取りとして一定の核家族化を取りこんだ新しい形の大家族制確立が望まれる。

2011年10月24日月曜日

パラレルワールド

パラレルワールド
 ビッグバン理論は現在、多くの学者がスタンダードなものとして認める定説である。しかし、そのビッグバン理論、およびそれをささえるインフレーションモデルには、じつは穴があった。ある科学者は、超ひも理論として有望視されているM理論に触発され、その穴を補う新理論を打ち立てた。宇宙は2つのブレーンワールドが衝突することにより、膨張と収縮を周期的に、ことによると永遠に繰り返すという、サイクリック宇宙である。

 ダークマターは過去を支配し、ダークエネルギーは未来を作って行く。

 インフレーションモデルでは、空間の大部分は統制の取れていない乱れた状態にあって、高エネルギーの激しいインフレーションを経験する。この過酷な空間の至るところにまばらに散らばった領域でインフレーションが終わって放射と物質が生成するが、それぞれの領域は大きく異なる姿をしている。全体は一つの宇宙とは到底言えず、まったく異なる領域を無限個抱えた多宇宙となる。
 この描像によれば、地球は多宇宙の中でも生命が存在しうるとても稀な場所に位置している。天文学的な最大スケールで見えるものが人間の存在に必要な条件に強く制約を受けているという、とても特殊な場所だ。

 サイクリックモデルはそれとはまったく違い、宇宙はどこでもほぼ同じだという描像を与える。空間のすべての領域が規則的に繰り返される一連のサイクルを通じて統制の取れた形で進化し、そのサイクルはビッグバンで始まってビッグクランチで終わり、ダークエネルギーはそのサイクルを動かしつづけるという重要な役割を果たす。
 すべての領域で、銀河、恒星、惑星、そしておそらく生命が何度も繰り返し誕生する。宇宙は統計的なくじ引きなどではなく、物理法則に支配されるダイナミックな進化によって必然的に生み出されたものだ。


このように「サイクリック宇宙」論が取り上げられてくると、魂は次元を超えるか?科学と宗教との合体はあるのか?輪廻転生との関連があるのではないか?等々の新たな疑問が沸いてくるのであります。なんと不思議で、面白い世の中であり宇宙なのでしょうか?ワクワクしてきます。

珍説“宇宙金魚鉢”論

珍説“宇宙金魚鉢”論
 幼き頃から誰もが抱いてきたであろう“永遠”の疑問――宇宙はどのようにして誕生したのか?宇宙のはじっこってあるんだろうか?今後宇宙はどうなるのだろうか?そして、少し長じて――物理法則は宇宙のどこでも同じなのか?時間と空間は永遠に存在するのか?宇宙は一つだけなのか?今日観測されている物質や光は最終的にどうなるのか?

 こどもの疑問と侮るなかれ、選ばれた一流の宇宙物理学者や数学者も同じ疑問を抱き、彼らは専門家としてその課題に取り組んでいる。

 巷の例に漏れることなく幼少の自身も、雲を眺め、空を眺め、夜空を眺め同じ思いにふけった記憶がある。

 そうこうするうち、むかしむかしある時閃いた。宇宙の端に向かってずっと旅して行くと、突然、「おじいさんとおばあさんが陽のあたる縁側に腰掛けて金魚鉢を眺めている場」が新たに現れる。そしてまた同じことの繰り返しが起きる。
 したがって、宇宙に際限はないんだとの勝手な結論を導き、自分自身はそれを一応の区切りとみなしていた。

 最近いくつかのこの手の啓蒙書に目を通す機会があった。半世紀を越える時を経て、宇宙物理の進歩から見えてきた宇宙の姿が、意外や意外、「金魚鉢」説を思い起こすことになったのであります。以下に啓蒙書類からそのエッセンスを記してみたいと思います。

2011年10月19日水曜日

宇宙のガンマ線、3分の1は発生源不明

宇宙のガンマ線、3分の1は発生源不明 NASA

 ダークマターの発見だと画期的だが!

写真:NASA/DOE/FERMI/LAT COLLABORATION

(CNN) 米航空宇宙局(NASA)のフェルミ・ガンマ線宇宙望遠鏡で観測された1873のガンマ線のうち、発生源がまったく分からないケースが600件近くに上ることが分かった。NASAがこのほど、ウェブサイト上で明らかにした。

ガンマ線は大質量の星の爆発などで放出される高エネルギーの電磁波。NASAは最近2回にわたり、同望遠鏡で発見したガンマ線源のリストを公開した。「パル サー」(中性子星)や「ブレーザー」などの天体が特定されている。しかしフェルミ・チームの科学者デービッド・トンプソン氏によると、「発生源が何もない と思われる方向からガンマ線が来ているケースがある」という。

研究者らによると、こうした「謎のガンマ線」は、目に見えない「ダークマター」(暗黒物質)から発生している可能性がある。ダークマターは宇宙にある物質の85%を占めているとされるが、これらがぶつかり合ったり消滅したりする際にガンマ線を発し、NASAの望遠鏡が検出したとも考えられる。事実だとすれば、ダークマターの存在をとらえた初の観測となる。

トンプソン氏は「フェルミのプロジェクトは続く。パズルの答えを求め続けるなかで、さらなる驚きに遭遇するかもしれない」と話している。CNN 2011.10.19 Wed posted at: 19:28 JST

2011年10月14日金曜日

天下道

天下道

天下道あれば、則ち庶人議せず。 ―― 孔子

生命は刹那の事実なり、死は永劫の事実なり。―― 長谷川如是閑

政事は豆腐の箱のごとし、箱ゆがめば豆腐ゆがむなり。 ―― 二宮尊徳

政治…仮装して行う利害得失の争い。 ―― ピアス

近代国家の行政は、ブルジョアジーの公務を管理する一つの委員会にすぎない。―― マルクス、エンゲルス

人は二つの方法によって生きる。つまり、社会に従うか、自然に従うかである。 ―― ユーゴー

2011年10月13日木曜日

風呂の歴史:海外編7

風呂の歴史:海外編7

世界一周お風呂の旅は今回で一応の区切りとします。

7)アフリカのお風呂
アフリカにはいわゆる施設としての風呂はない。すべて臨時のものであり病気治療のための浴法である。
 北アフリカは地中海地方に含まれるが、サハラ以南はどんな入浴法なのか。サバンナのような乾燥地帯では基本的には風呂に入らないし、その必要もない。熱帯地方は東南アジアと同様の水浴の世界である。しかし病気の治療を目的とした蒸気浴や煙浴がみられる。

 西アフリカのシエラ・レオネやリベリアあたりのメンデ族は、クレ・ラという葉を煎じた液の蒸気の中に患者を座らせて、その蒸気を吸わせる。
 中央アフリカのマンディゴ族では、小さな小屋の中に患者を入れ、そばに火の燃え残りと薬草の入った壺を置く。そして小屋の上を隙間のないようにござで覆う。すると残り火の煙でいぶされ、かつその火で汗をかき、さらに薬草の蒸気も出るという具合で熱気・蒸気浴の煙浴である。

 北東部バンツーのガンダ族では、熱病の治療に熱気浴を用いる。下コンゴのバフィオテ族では、家の床に穴を掘り、その穴の周りの壁土にバナナの葉を張り付け、その穴に薬草を混ぜた湯を注ぎ込んで湯浴する。
 ベルギー領アフリカでは、土中に患者を埋めその上で火を燃やす。まさに土浴ともいうべき発汗浴である。子供のできない夫婦の場合、ござの囲いの中で火を焚き、数種類の木の根を鍋で煮て、ヤギの子宮を鍋の下にくべる。そうした中で汗をかくという呪術的な煙浴まである。
アフリカ南部のナマ・ホッテントット族では、硫黄温泉を沐浴と蒸気浴の両方に用いた例もある。


 これまで世界の風呂の歴史をざっと見てきました。
 世界各地でさまざまな形の風呂があり、その地域独自の風呂もあれば、互いに交流があって共通の風呂もあります。入浴法も熱気浴、蒸気浴、熱湯浴、水浴、煙浴などいろいろです。

 風呂の変遷はそれなりに興味がそそられておもしろいのですが、いったい風呂というものはなんのために生まれたのか。
 風呂というもののそもそもの意味、すなわち風呂の起源について考えたとき、「恍惚」(シャーマニズム)から派生したという仮説があります。シャーマンあるいはシャーマンとともにいた人が、トランス状態にはいるための技法のひとつとして成立したというわけです。

 エキスモーの風呂にみられたように、熱さと酸欠と煙で男達は息も絶え絶えになるまで家の中の風呂に我慢してとどまっている。こういうことはそこによほどの意味を見出さない限り、繰り返し行わないであろう。気持ちがいいとか、たまたま病気が治ったぐらいでは繰り返されるものではない。このもうろうとした状態の意識にその意味がある。
 それはトランスにはいりやすい状態、すなわち恍惚とした状態である。
狩猟の安全や成果、病気の治療であれ、人の生存に関わることは、トランス状態に入ったシャーマンの天上の神のご託宣により決せられていたのである。だからトランス状態に入ることはきわめて重要なことなのである。

 トランスに入る方法にはいろいろある。
 単調な太鼓の音に合わせて歌い踊る、あるいは激しい身振りを続けるうちに一種の陶酔感、無我の境地を感じるのも、逆に身体を痛めつける苦行、例えば皮膚に傷をつけて放血したり、断食や極度の疲労なども、恍惚とした状態に入れる方法であった。
 さらに薬物を飲んだり食べたり、あるいは吸ったりして意識をもうろうとさせる方法もある。風呂と幻覚剤を組み合わせた例もある。焼き石に大麻をくべたり、風呂の中でタバコを吸うこともしていた。
 毒キノコやサボテン、コカの葉も恍惚に導く強力な手段であった。これらがすべて入浴と結びついていたというわけではないとしても、十分に推測しえることである。

 私達日本人が風呂にどっぷりと浸かったとき、特に寒い冬場などには、大きなため息とともに「あー極楽、極楽」と言葉を発するのも、一種の恍惚の精神状況になっているのかもしれない。(http://www6.ocn.ne.jp/~osaka268/rekisinonagare.htm)
 

2011年10月12日水曜日

風呂の歴史:海外編6

風呂の歴史:海外編6
6)中南米の風呂

 中米の風呂は北米インディアンの風呂とはかなり違う。現在メキシコで使われているテメスカルという風呂は、ドーム状あるいは箱型の家で煉瓦で造られている。その外側にくっついて炉が設けられている。家の大きさはいろいろだが、風呂の内側 の高さはおよそ1m、円形のものでは直径が2mほど、箱型のものも2×2mぐらいで、数人が入れる。18世紀頃の記述では10人位入れた大きなものもあったという。
 
 まず炉で火が焚かれる。煙は浴室にも充満する。病気を治療する場合は、十分に熱せられた後に、一鉢の水と草の束あるいはトウモロコシの葉を持って裸で入る。入り口は閉じられ、煙り出しの穴もしばらくしてから閉じられる。それから熱せられた石に水を注ぐ。横たわった病人の特に悪いところを、水をしませた草の束で優しくたたく。こうして汗をかかせ、具合がよくなると入り口を開け病人を外に出す。

 現在では、産後の婦人専用といってよいほどに、このテメスカルを用いている。テメスカルというのはもともとはマヤ語系のナワトゥル語のテマツカリからきた言葉で、テメは「風呂に入る」、カリは「家」という意味で、「風呂の家」ということになる。

 南米には風呂とみなせるものは極めて少ない。インカ帝国では、石造りの立派な浴槽が見られるが、これは水浴用と考えられるもので、温かい風呂はインカにはないようである。

 アンデス高地ではインカの例のように水浴していたものと思われるが、2000メートルを超える高地ゆえ、水が冷たいからそんなに一般的ではない。病気の治療用として用いられたのではないか。
 しかし、チリ中南部のアラウカニア族は蒸気浴を、ペルー・アマゾンのナンビクアラ族やトゥパリ族の薬用の湯風呂など、病気治療用に蒸気浴や熱気浴を用いていた。
 
 また風呂ではないが、風呂と強い相関関係のある発汗、蒸気治療法として、南米の南端ホーン岬あたりに住むヤーガン族では、全身を包むような服を患者に着せ、火の近くに座らせて発汗させるということも行われた。

 中米のホンジュラス北部高地に住むレンカ族でも患者に服をいっぱい着せて汗をかかせるという治療法がみられる。また身体を部分的に熱い砂の中に埋めるという方法も知っていたようである。(http://www6.ocn.ne.jp/~osaka268/rekisinonagare.htm)

2011年10月11日火曜日

不潔の歴史

不潔の歴史
 『不潔の歴史(Dirt on Clean)』を読むと、毎日お風呂に入れることが奇跡のようにありがたいなぁ~と感謝したくなるはずだ。 欧州ではギリシャ・ローマで賑わっていた水浴・入浴の習慣は、暗黒の中世ですっかりと途絶えたが、十字軍の遠征によって「トルコ風呂」として再発見される。しかし14世紀以降に大流行したペストが「毛穴から入り込む」と信じられたため、肌を露わにする習慣は再び立ち消えとなる。

 欧州の香りは均一ではない。名実ともに最も不潔な地域として異臭を放ったのはフランスとスペイン。主な理由は、①温暖な気候、②イスラムへの恐怖と異端審問、の2つだ。

 イギリス生活では、仮に夏場に毎日シャワーを浴びないとしてもさほど悲惨ではないが、温暖な地中海気候の地域ではそうはいくまい。フランスのルイ14世の入浴は生涯に1度こっきりだったと言われているので、香水が発達して当然だ。

 同じ地中海気候の中でもスペインとフランスがダントツで不潔な理由は、スペインでイスラムに対するレコンキスタ(失地回復運動)が進行する中で、「入浴の習慣はイスラム的」であるとして全面禁止にされたためだ。「風呂に入る」ことが異端審問の対象だったのだ。

 「恋に落ちたシェークスピア」や「エリザベス」に漂う香りよりも、スペインのサンチアゴ大聖堂やフランスのシャルトル大聖堂に充満していた匂いを想像できるだろうか。いかに強烈な刺激であれ、長時間続くと感覚は麻痺していくものだが、教会という密閉された空間に、生涯未入浴の巡礼者が大挙してひしめき合ったとき、酸欠やガス中毒で斃れた人はいたでしょうね・・・。

■この本から学ぶ教訓
 紀元前5世紀のギリシャで医学の祖ヒポクラテスが「入浴の達人」として知られていた。温浴・冷浴の組み合わせによって4つの体液(血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁)のバランスを取ることが健康の要であると提唱。これは現代人がもっと取り入れるべき。現代人はアメリカの石けん革命(1920年代)を引き継いでいるが、無臭化社会や無菌化社会の行き過ぎにはご用心。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1906255

2011年10月9日日曜日

風呂の歴史:海外編5

風呂の歴史:海外編5

5)シベリア、ロシア、北欧の風呂

 エスキモーはじめとしてアメリカ・インディアンはシベリアから移住してきた人々であり、住居もよく似ているし、風呂も熱気浴があったであろうと想像されるが、19世紀以降のシベリアの民族誌の中には風呂の記述はほとんどない。

 カムチャッカ半島に住むカムチャダール族は、皮膚病などの治療のために、温泉に入っていたらしい。硫黄の臭いのする100度近い温泉のそばに穴を掘り、湯をその穴に引いて、40~50度ほどに下げて用いていた。また温泉の上に小屋を建てることもしていた。しかし、その少し西方に住むギリヤーク族は、水の中に入ったり、降ってくる雨で身体を洗ったりしている。

 シベリア中央部に住むサモエード族になると、むしろ皮膚から垢を落とさないことを重要と考えていたらしい。垢や脂で寒さを防ぐことができるし、道に迷っても犬が臭いを嗅ぎつけて探し出してもらえるというわけである。サモエード族をはじめシベリア東部から西にかけて居住していた民族はほとんど風呂を知らなかったのではないかという。

 古代ギリシャのヘロドトスは、紀元前5世紀頃の黒海北岸にいた非定住民スキタイ族の風呂のことにふれている。三本の棒を地面に突き刺したテント型の風呂で、赤く焼けた石をテント中央の皿の上に置き、インドアサの種子(大麻)を焼き石の上にふりかけ煙を出させ、特に葬儀の後の身を浄めるための熱気浴として利用していた。

大麻だけでなくある種の木の実や果実など他の麻薬性のものも併用し、酒を飲んだような状況で風呂に入ったようなもので、踊ったり歌ったり気分がハイになる。かつてはシベリアの諸民族はよく似た熱気浴型の風呂を持っていたと想像できるが、後に何らかの理由で消えてしまったらしい。

 シベリ南部の中央アジアでの風呂はどうだろう。モンゴル族が風呂を持っていたという記録はない。後に中国式の浴槽に入るようになるが、それは宮廷文化として入ってきただけである。

 さらにチベット族は風呂に入らない民族として知られている。遊牧民の世界は基本的に草原であり、豊富な燃料がなかったことがひとつの理由だろう。

 フィンランドのフィン族は狩猟採集民であったが、はやくからテント型の風呂を用いていたようである。地に定住し半地下型の家に住むようになると同時に、風呂もテント型から半地下型の家の風呂へと変わっていった。それが今のサウナの起源である。
  
 サウナが文献に現れるのは16世紀以後のことである。サウナの基本構造は丸太でできた家(半地下、地上を問わず)の一角に炉がしつらえられ、その上に石がおかれる。炉で火を焚き石を焼く。部屋には煙突や煙出しの穴はなく、煙は丸太の隙間および入口から出る。普通二段の棚があり、そこに座ったり寝そべったりして汗をかく。

 十分に石が熱せられ 、火が燃え尽きると、その石に水をかけ蒸気を出す。小屋には複数の人が裸で入る。裸はあまり気にされず男女の混浴も普通のことである。汗が出てくると、春の新葉の時期に採集し乾燥させておいたシラカバの枝の束を水につけ、焼き石の上で振り蒸気をたてる。こうすることによってシラカバの枝を温め、かつ柔らかくする。この枝で身体をたたく。身体が熱くなると外に飛び出し、冷風にあたったり雪の中を転げまわったり、川に飛び込んだりする。これを何度か繰り返すのである。サウナも病気の治療に用いられるが、むしろ清潔あるいは楽しみのための機能に重きが置かれてる。

 このサウナはフィンランドが世界に輸出したもののなかで最も有名なものである。サウナが後世まで普及した一因は、薪からガス 、電気へと技術的革新があったからである。
 
 ロシアにもフィンランドのサウナと構造的に同じバニアというものがあったが、東西冷戦によりソ連内情を外に知られたくなかったことや、ガスや電気への転換が遅れたことがあったりして、世界に広まることがなかった。

 スウェーデンはフィンランドと文化的によく似ていてサウナがあったが、サウナ有害説を唱えて自国でやめさせようとしたため普及しなかった。

 フィンランドは逆にサウナの有効性を主張して国をあげてサウナに力を入れたのである。
(http://www6.ocn.ne.jp/~osaka268/rekisinonagare.htm)

2011年10月8日土曜日

風呂の歴史:海外編4

風呂の歴史:海外編4
 乗り掛かった船、しつこく長々とまだまだ続けます。世界一周します。今回はアメリカ大陸編。先住民の風呂です。

4)アメリカ大陸の風呂
 エスキモーのほとんどは風呂を持っていた。それは半地下型の家で、屋根は土で覆われていた。入り口は一つで、その部屋にもぐりこむように、穴道がついている。屋根に小さな穴があけられており、煙り出しになっている。人々はその上のベンチに座ったり、寝たりする「カシム」という家である。カシムは風呂専用というのではなく、既婚未婚の男性用の住居であり、儀礼用の家でもある。風呂として用いるのは、機能の一つに過ぎない。


 しかも風呂は日常的に入るのではなく、何かの儀礼のあるときに集まり、その10日前から女性を遠ざける。風呂を立てる当日、男性は踊りかつ歌う。夕方になると囲炉裏の火も大きくなり、部屋の温度も急上昇し、男たちは汗だくになる。
いわば発汗浴である。十分に汗をかいた後、雪の中を転げまわったり、冷たい水の中に飛び込んだりする。

 同じエスキモーでも、ベーリング海に住むエスキモーは少し違っていて、尿を入れた桶を用意する。風呂は冬の間の7~10日に一度たてられる。火が十分に燃えて灰になり、煙だしから煙が出て行った後、煙穴をふさぎ、息もたえだえになるまで部屋の中にこもる。

 たっぷり汗をかいた後、桶の尿をかけ油を塗りつける。その後は体がよく冷えるまで、雪の中にうづくまったり、冷たい水の中に入ったりする。「汚いなァー」と思うのは、文化の違いであり、シベリアの一部では尿で顔を洗ったり飲んだりする人もいたそうである。

 以上、エスキモーの風呂は、閉め切った部屋の中で火を焚き汗をかく直下型熱気浴である。男だけの儀礼用の風呂であり我慢の風呂であるが、その後の開放感を十二分に楽しんでいる。これこそ風呂の原型なのである。
(日本のサウナ風呂に似ている?とするとサウナ風呂も水風呂も最新の設備でなく、原始的な風呂なのか?)

 この形式の風呂はカリフォルニア州、さらにメキシコ州のプエブロインディアンなど太平洋沿岸部に分布していた。カリフォルニアに住む一族は、風呂は病気の治療にも用いた。汗をいっぱいかいてから、皮膚を鋭い木片などで掻き擦る。そして外に出て川や池に飛び込む。こうすることによってどんな病気も治ると信じられていた。

 直下型の熱気浴は、ニュー・メキシコ州を中心とした高原地帯に住むプエブロ・インディアンでも見られる。風呂に用いられる家をキバという。エスキモーと同様に、この家は風呂専用ではない。本来儀礼用の家で、地上に石を積んで作った穴蔵のようなものである。入口は上部に付いていて、はしごで屋根の上に登り、はしごを伝って中に入る。キバの中には壁の近くに囲炉裏がきられている。ここで火を焚き、エスキモ-と同様に汗をかくことになる。

 オレゴン州とカリフォルニア州との州境あたりに住むモドック族では、半地下型の家に居住しているが、風呂に用いる施設は、数人が座れるだけの小さなドーム状のテントを用いる。木を地面に刺して、ドーム状の骨組みを作りバッファローの皮をかぶせたもので、テントの外で焼いた石を持ち込み、それに水をかけ水蒸気を出させる。葬儀の後の浄めのためだけに用いられた特殊な風呂である。

 東部山岳地帯のアレゲニー山脈あたりのチェロキー族では風呂をたてる家をアシという。半地下型の家でかなり大きい。中央に囲炉裏があり、壁に沿って周りに棚がしつらえてあり、そこに座ったり寝そべったりりする。アシは冬の間の男達の寝所であり儀礼が行われる家でもある。
 囲炉裏に石を入れて焼き、その石を火から取り出し、アメリカボウフウの根をたたきつぶして水に浸したものをふりかける。その根から刺すような香りがたち、一方で水蒸気が舞い上がり汗だくになり、その後川に飛び込むのである。 狩人の訓練中の少年達は、アメリカボウフウの根を用いた風呂には入れず、水蒸気だけの風呂に入っていた。

 また、病気治療のための特別の風呂もあった。例えば腹が膨れあがるような病気の時は必ず石英の石を焼いて特別の薬をまいた。それはアメリカハンノキ、カキの一種、チョウクチェリー、アメリカスズカケノキ、ユリノキ、キモクレンの樹皮を用いた。アシでは儀礼を受けた男達だけが、シャーマンより種々の神話や秘密の知識を聞く家でもある。

 このアシはアメリカ独立後も続いていたが、白人の影響を受けて文化変容を起こし、やがてジャガイモの貯蔵庫になり、ついには消滅してしまった。

 アメリカ合衆国の西南部に住むナバホ族は、風呂をタックアチェという。針葉樹の割板を立てかけるようにして小屋をつくり、土をかぶせて密閉し、土饅頭のような形にする。3~4人がかろうじて入れる狭さである。

 小屋のすぐ近くで石を焼き小屋の中に運んで、入口を毛布などで塞ぐ。セイヨウスギやマツの葉を焼け石の上に置いて水を注いで蒸気を発生させる。タックアチェは神を呼ぶための風呂であり、また蒸気を吸うことによって体を強め、あるいは病気を治療する。さらに狩りに出る前に人の匂いを消すためにも用いられる。 

 今のアイダホ州やワシントン州の保留地あたりに住むネッツ・パース族は、冷水浴、熱湯浴、発汗浴の三つの風呂を持っていた。冷水浴は、晩秋から初春にかけての寒い時期に、しかも毎朝夜明け前に起き出して川で行われる。これは若い男たちが身体を強くするための風呂である。冷水浴は傷ついた靱帯の回復に効くと考えられていたし、冷水に耐えるのが男らしさの証明でもあった。
 
 熱湯浴は、川のかたわらに穴を掘り焼き石を放り込んで熱湯にするという方法がとられた。早朝に入るため朝の2時頃から火が焚かれる。川に入って出来るだけ体を冷やした後に入る。あまり長時間入ることが出来ないほどの熱湯である。 
 発汗浴には、半地下型の家、枝を組み合わせたドーム状の小屋に土をかぶせたもの、皮をかぶせたテント状のものがあり、いずれも焼き石を中に運び熱湯をかけるという発汗装置である。

 興味深いのは、熱湯浴や発汗浴のとき、吐き棒なるものを用いたことである。バイカウツギやコウリヤナギなどのやわらかい枝をゆっくりと口から胃に達するまで入れて、胃の中のものを吐かせまた風呂に入るということをするのである。

 冷水浴が若い男を強くするためのものであるのに対して、浄めの要素が強い。体を浄めることによって、危険な行為に幸運をもたらすと考えられた。例えば、敵の領地を通過するときや、賭け事、馬を盗むこと、狩り、戦い、裁判などで幸運をもたらす。たえず熱湯浴を用いていると、どれほど走っても疲れないし、馬よりも速く走れ、鹿をも追い抜くといわれた。(http://www6.ocn.ne.jp/~osaka268/rekisinonagare.htm)

2011年10月7日金曜日

シンプル・イズ・ザ・ベスト

シンプル・イズ・ザ・ベスト
オバマ「カンのあとはノダか。なぜ日本の首相の名前はシンプルなのが多いのだ。」
補佐官「なにせ、直ぐ代わりますので、外国人向けに覚えやすい名前を選ぶそうです。」

ゴキブリ首相
外国人記者の前で日本の新首相は得意気に言った。
「自分は泥臭いドジョウ(Loach)であります」――と言ったつもりが、LとRの発音が区別できずにゴキブリ(Roach)と言ってしまった。
だから日本ではドジョウ、外国ではゴキブリが通り相場になってしまった。どちらにしても冴えないけれど。 

“真”説
地球は球形である。
だから自分に一番遠いところは自分の背中だ。

2011年10月6日木曜日

風呂の歴史:海外編3

風呂の歴史:海外編3
3)アジアのお風呂

 インドのモヘンジョ・ダロに、グレートバスと呼ばれる紀元前2500年頃の遺跡が見つかっている。縦51m幅30mの大きな建物の中央部に、長さ20m幅10m深さ2.5m程の大きさのバスは、入浴の楽しみのためではなく、宗教的な浄めが行われた場所であったらしい。
 仏教の始まりの頃(紀元前6世紀頃)僧院の規則集の中には、風呂のことを「ジャンターガラ」といい、別の文献では「ガンターガラ」と記している。推測すると、まず風呂のある家と水浴びをする井戸を取り囲む垣根が施されている。風呂のある家は一軒家のようで、ホールとポーチが付属し、すぐ近くに屋根付きの部屋を持つ井戸がある。ポーチからホールに入ると、脱いだ服をかけるための紐や竹が用意されている。浴室はしっくいを塗って気密性高くしてある。壁は細かい木を編んで、屋根もしっくいを塗って熱気や蒸気を逃がさないようにしてある。床には煉瓦、石、木の枝が敷かれ、囲炉裏が置かれ熱気をつくる。浴室に蒸気を送るパイプも引いてあり、熱気浴、蒸気浴を行っていたと思われる。

 風呂に入るときは、香りのついた粘土を顔に塗り、身体にかける水を持って入る。火の近くに椅子を置き座る。十分に汗をかいた後に井戸で水を浴びる。インドの医学書にも熱気浴、蒸気浴と思われる発汗法が書かれている中には、薬物の煎液を釜あるいは槽に入れて入るという薬風呂らしいものもある。インドではこのように様々なタイプの風呂が出現していたようである。

 中国では、古くから水浴がなされていたようだが、浴槽に浸かる風呂もあったらしい。昔の入浴の方法は、薄い布と少し厚手の布の二枚を用意して、薄い布で身体の上部を洗い、厚めの布で下部を洗う。浴槽を出ると菅(すげ)で織ったむしろを踏んで垢を擦る。浴室でその足を洗ってから、蒲(がま)のむしろを踏み、湯上りを着て堂に上がって酒を飲む。浴後のどが渇いて、酒を飲むということから温浴であったと考えられる。

 時代が進み公衆風呂として[浴堂]というのがあった。大きな木製の浴槽があり湯は釜で温められていた。上がり湯もあった。この種の風呂は庶民が入る風呂で、お金のある人は[浴堂]にある[盆湯]と呼ばれる個室で沐浴していた。中国の文献に残る古い入浴風景を描写してあるのを見ると、日本の入浴風景とよく似ている。湯はそれほど熱くなかったようである。

 現在の中国では、[澡堂]あるいは[浴堂]と呼ばれる公衆風呂があり、男性だけが入り女性の風呂はないそうです。一般家庭には風呂があり、洋式が多く日本式の風呂もあるらしい。しかし浴槽のないときは、たらい(木盆)で身体を洗うそうです。

 朝鮮半島での風呂は、現在の韓国に見ら れる公衆風呂は日本から入ったもので、その形式も日本の銭湯に近いものである。日本経由で入った[サウナ・タン(湯)]と呼ばれるサウナも盛んである。薬草の香りがするあたりが韓国風である。

 朝鮮半島の在来の風呂には二種類あったらしい。一つは桶あるいはたらいでの沐浴で、その簡素な形が川での沐浴である。
 今ひとつは[汗蒸(ハンジュウ)]である。15世紀より前から用いられていたようである。[汗蒸]とは、石を積み、泥土で塗り固めた窯状の風呂で上部あるいは四方の側方に煙だしがつき、入口の部分が少し張り出している。この窯状の上を直接わらで葺いたものもあれば、家を建てて窯を覆う場合もある。窯の高さ約3m直径約4m、入口の高さ1,5m幅1,7m程の大きさで、普通は5人~10人くらいが一度に入る。
 この窯の中で枯れ松を燃やし、燃え尽きたところで戸を閉じ、15分程して灰をかき出し、濡れたむしろを敷いてから中に入り発汗する。入るとき湿した布で顔を覆ったり、頭にかぶったりする。裸で入るときもあれば腰に布を巻いたりもする。女性は下着を着けたまま入る。たっぷり汗をかいた後外に出て、湯または水で汗を流し休息をとる。これを何度か繰り返す。もともとは病気治療のためであったらしい。

 東南アジアでは発汗浴はなかった。この地域は熱帯であり自然の状態でも汗をかく。しかも周りには豊富な水があるから水浴が一般的である。
インドネシアでは水浴のことを[マンディ]といい、実に頻繁にマンディをする。身を清潔にするためである。たっぷりと水がたまった水槽から手桶でざあっとかぶるのがいいらしい。
 バリには立派な公衆の水浴場がある。温泉もないわけではないが、暑いところでは熱い湯に入ってマンディをするなど思いもよらないから、自然に湧き出した温泉はほとんど使われていない。インドネシアでも高地になるとかなり寒い。
 ジャワやスマトラの山地では暖かい昼の間にマンディをするか、あるいは湯を沸かしてその湯で身体を拭く。スマトラ北部のタパヌリ高原では温泉を利用するところもあ る。ぬるめの湯だがその地の人には十分に熱い湯なのであろう。

オセアニアでは海または川での水浴が一般的である。しかし生活の近代化とともにシャワーが普及するにつれ湯の利用もあたりまえになるのであろうか。(http://www6.ocn.ne.jp/~osaka268/rekisinonagare.htm)

2011年10月4日火曜日

風呂の歴史:海外編2

風呂の歴史:海外編2
 
2)古代ローマ帝国の影響
 北西ヨーロッパでは、軍の行くところ、どこでも古代ローマ型の風呂が作られた。戦士には風呂が必要というのが基本的な考え方であった。城の中に作られる風呂は一般に小さく500~1000人ほどの人が入るものだが、軍団の風呂は5000人~6000人の戦士が入るかなり大きな規模のものであった。

 地中海東部のシリアでは、スポーツという概念がなかったので、古代ローマ式の風呂がもたらされても競技場は受け入れられなかった。また場所柄、熱い空間よりも冷たい空間がより重要視された。暑いこの地方にとっては、冷たい空間の方が快適であろうし、現実の問題として燃料入手の困難さもあった。

 砂漠では十分量の燃料を得られないから、高い温度の浴室は小さくなる。水の供給も難しいため、水を多く使わない個人用に小さく区切られた浴槽に変わる。結果として競技場が失われ、高温室は小さくなる一方で、着替えのある部屋や冷気室が大きく立派になった風呂ができあがる。ここが社交の場となっていく。これこそが後のトルコ風呂、より正確にはイスラームの風呂となる。
 
 イスラームの世界では、風呂はもはや記念碑的な壮大な建物ではなくなる。アラブ人は、古代ローマ式の風呂に出会うまでは水浴などほとんどしたことのなかった人々である。
 イスラームの風呂では、まず着替えたり休息したりするための部屋がある。すぐに高温室に入り、マッサージ、散髪、体毛を剃ること、放血、足のたこを削り落とすこと、垢を擦り落とすことなどが行われる。ここでは湯をかけたりして、かなり蒸気も多かった。次に熱気浴室に入った後、先の着替えの部屋にもどり、そこで冷たい飲み物を飲みながら休息を取る。
 イスラームの風呂では、一般に流れのない水には入らない。よどんだ水は清浄ではないというわけである。こうして風呂から浴槽がなくなる。

 イランでは事情が少し異なっていた。公衆浴場をギャルマーベ(湯という意味)という。着替えと休息の部屋と浴室からなり、それぞれトイレと脱毛の部屋が付属している。浴室には大きな温水の浴槽があった。しかしこの浴槽の水は、年に3~4回しかとりかえなかったという。おそらくイランではイスラームの風呂を受け入れる前から、温水の沐浴が普及していたのであろう。

 ローマ帝国の崩壊後ヨーロッパ世界から風呂が消えていった。消えていくことにキリスト教が深く関わっていた。性に対してきわめて禁欲的なキリスト教にとっては裸を見たり見せたりという入浴行為は許し難いものであり、時には男女混浴などもってのほかである。
 確かにキリスト教の教会や修道院も風呂は持っていたが、それはひとつには洗礼の儀式のためであり、また清潔を保つため、また風呂に付属した広間は集会のためのものであった。決して楽しむような風呂ではなかった。

 北欧や東欧においてもキリスト教の普及につれて、風呂を心地よい快楽の方向へとは向かわせなかった。
しかしキリスト教の影響を受けながらもサウナなどの風呂がとぎれることなく続いていた。
西欧でもまったく風呂がなくなったわけではなく、大きな桶を用いての入浴ならあったし、その種の温水の公衆浴場もあった。
 ところが風呂はしばしば売春などの放蕩と結びつき、また姦通などのスキャンダルの温床となったりして、キリスト教の非難の的となった。さらには燃料不足や伝染病の蔓延ともあいまって、風呂のイメージは悪くなるばかりであった。

 各地で公衆浴場の閉鎖令が出されるようになり、ついには中世末にはヨーロッパから風呂が消える。後は桶で顔や手を洗うという程度になってしまう。特に食事のさいに手を洗うことが重要視されたのは、風呂に入らなかったことがひとつの理由であった。
 こうした庶民とは別に王族達は豪華な風呂を持っていた。例えば、ナポレオンが使ったというエリゼ宮殿の風呂はシャンデリアまでついている。

 18世紀以後になって、ヨーロッパに風呂が再登場する。産業革命によって都市化が進むと同時に、都市は不潔の象徴となり病気にかかる人が多くなった。そんな中で衛生という概念が生まれ、下水道整備などの具体的な形を取り始めた。

 そんな流れの中から清潔にするための風呂が見直されたのである。復活してきた風呂の一つは、ロシアの「白いバニア」である。特に1815年ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、ロシアがドイツに侵出したとき、ロシア式の風呂が作られまたたく間に広がった。これはドイツ各地からウイーンやパリにも広がっていく。

 いまひとつの風呂はトルコ風呂である。特にイギリスで普及した。やはり工場の排ガスで汚れた都市の労働者のための風呂である。しかし、この二つの風呂は長く続かず、技術革新のもとにこの後いろんな形の風呂が考案された。
時代の要請は、経費も時間もかからない、簡便でそれでいて清潔さを保つ風呂ということで、ヨーロッパだけでなくアメリカでもシャワー入浴法が発展していくことになる。

 コンパクトな浴室というものが定型として確立するのは1920年代に入ってからである。ホーローびき鋳鉄製のバスタブが機械生産されるようになり、バスタブの大きさが浴室の大きさを決めるという方向に発展していく。現在では、湯の出るシャワーと、湯で身体を洗う浅いバスタブ、湯の出る洗面所、そして水洗トイレが組み合わされた個室型の浴室が、世界を制覇している。(http://www6.ocn.ne.jp/~osaka268/rekisinonagare.htm)

2011年10月3日月曜日

採血

採血
 私の血管は浮き出にくく、採血の際に毎回看護師に苦労かけている。それでも、これまでの少なくない経験から、一度の針刺しで上手に採血してくれる人と、そうでない人がいる。得手不得手があるのだろう。

 今日のA看護師は、きっと気持ちの優しいヒトなのだろう、「痛いでしょう、ごめんなさいね」と云いながら、左腕や右腕を見くらべながら、何度か操作を繰り返し、悪戦苦闘していた。そして突如、「選手交代します」、と言い置いてギブアップ。

 引き継いでくれたのはいかにもベテラン看護師と思われるBさん。一筋縄ではいかないと感じたのか、「う~ん」、と云いながらもタッピングしたり、ゴム管の強度を調整したりいろいろ苦労しながら、それでも2回目に上手く行ったようで、「採れていますからね」と、むしろ自分自身に言い聞かせている雰囲気で、ほっと安堵している風だった。

 小生は、「どうしたら血管が浮くようになりますか」とBさんに問いかけてみた。運動しろとか筋肉鍛えろと云う類の長期的な意味での返事を期待していたが、すでに試し済みの現実に即したコツ・ノウハウの一端を語ってくれた。

 無事採決が終了したところを見計らって、Aさんが現われ、改めて「すみませんでした」と繰り返し謝っていた。「いや、良いんですよ、ボクが悪いんですから・・・」と恐縮して思わず言った。その瞬間、周りで別の仕事をしていた看護師さん達も含めて皆が反応した。聞き耳を立てて気にしていたんだろうね。そして、なんと皆がまた口をそろえて、「すみませんでした」と云うではないか。

 後できっと「今日こんな患者さんが来たのよ」なんて話題になっているかも知れないと勝手に想像し、「また来ようこの病院」?と思ったのでした。

2011年10月2日日曜日

カラカラ浴場

カラカラ浴場

 カラカラ帝の浴場跡にあった案内看板(想像図)

(以下は、『ローマ人の物語』第10巻p.179~182 塩野七生より)

 ローマ市内にあった有名な浴場を建設順にあげると次のようになる。
 「アグリッパの浴場」「ネロ浴場」「ティトス浴場」「トライアヌス浴場」「カラカラ浴場」「デキウス浴場」「ディオクレティアヌス浴場」「コンスタンティヌス浴場」

 初代皇帝アウグストゥスの右腕であったアグリッパの建てた浴場以外は、すべてが皇帝が建てた浴場だ。内部の構造はどれも似たようなものだから、図を示したカラカラ浴場で代表させるとして、浴場の内と外を飾っていた美術品の質の高さと数の多さは、ローマ時代の美術館であったと言ってもよいくらいである。
 「アグリッパ浴場」にある一つの彫像を気に入った皇帝ティベリウスが、どうせ庶民には傑作も理解できないだろうと皇居に移したのだが、入浴客のごうごうたる抗議でもとの場所にもどさざるをえなかったというエピソードもある。

 現代のわれわれが美術館に行って鑑賞するギリシア・ローマの彫像の中で少なくない数が、これらの公衆浴場から発掘された品である。ヴァティカン美術館の至宝といわれるラオコーンの群像も、「トライアヌス浴場」を飾っていた一つだった。・・・・・

 ローマの庶民たちが、これらの傑作で飾られていた「浴場」(テルマエ)を、「われら貧乏人のための宮殿」と呼んでいたのも納得がいくというものではない か。これほどの設備でありながら入場料金となると、パン一つと葡萄酒一杯の値段にしか相当しない二分の一アッシスでしかなかったのだ。しかも兵士と子ども はタダ。奴隷でも入場可能だったが、その奴隷が公務員であれば、兵役勤務者と同じく無料だった。ローマ時代にはどの街にもあったこの種の公共浴場は、長く男女混浴だったのが、ハドリアヌス帝の時代から男女別浴に変えられる。ただし、内部を男女別に分けるのはもはや不可能であったので、時間で分けることになった。家で仕事することの多い女は、午前の十時から午後の一時頃まで。日の出とともに外に出て仕事する男や学校で学ぶ子どもたちは、午後の二時から五時 まで。・・・・

 だが、ローマ帝国内の都市ならば必ずあった公衆浴場も、紀元四世紀の末ともなると入場者が激減する。・・・・それまでの裸のつきあいに代わって、他人に 裸を見せることを悪とする考え方が広まったのである。キリスト教の支配が決定的になって以後のローマ帝国では、男までが腕を露わにしないために、長衣(トーガ)の下に長袖の下着をつけるようになった。

 この時代、多くの人の混浴が特徴だったローマ式の大浴場はもはや生きる場は残されていない。それに、公 衆浴場には、裸体の彫刻が数多く飾られていた。キリスト教徒にとってのそれらは、邪教とされ排除すべきとなったギリシア・ローマ宗教の象徴である。破壊されるかテヴェレ河に投げ捨てられるか、幸運に恵まれたとしても忘れ去られて放って置かれた。

 かつてのローマ庶民にとっての宮殿は、教会や民家の建築材料に使えそうなものすべてをはがされ、レンガの壁だけがわずかに昔の壮麗さを想像させる、巨大な遺跡に変わった。

(かくして、今や現在見るような残骸だけが残されている。浴場といっても、銭湯のような小さなものではない。現代の温泉健康ランド的なものをさらに大規模にしたようなものと言えるだろう。熱い湯、ぬるい湯、水風呂、サウナ、マッサージ室、プール、体育館、運動場、図書室まで完備していたらしい。)

風呂の歴史:海外編1

風呂の歴史:海外編1

 行き掛り上、次には世界各地の風呂の歴史を見ることにします。(以下、http://www6.ocn.ne.jp/~osaka268/rekisinonagare.htm より)

1)メソポタミア、古代ギリシャ、ローマの風呂

*メソポタミアの風呂
 紀元前4000年末頃の都市ウルクの神殿群の中に給排水施設を持った沐浴室が見つかっています。沐浴室は「浄め」のために用いられたと考えられています。
 紀元前3000年頃のエシュヌンナ宮殿では、沐浴室が5カ所見つかっていますが、そのうちひとつはトイレと併設されている。これは「浄め」というよりももっと実用的なものであり、王の私的なバス・トイレであろう。

 紀元前1800~1450年頃のクレタ島のクノッソス宮殿女王の部屋では、立派なテラコッタ製の浴槽を備え、排水施設も設けられ、隣の部屋に水洗のトイレが作られていた。この浴槽ではたぶん温水も用いられていたと考えられる。この形の風呂が後にアメリカで大発展する現代のバス・トイレの原形であるという点で注目される。

*古代ギリシャでは二つの系譜の風呂が見られる。
 ①ひとつは、浴槽を用いた個人用の風呂である。これをバラネイオンという。紀元前7世紀頃の上流階級の人々は温かい湯を使う風呂に入っていた。この風呂は少し変わった形をしていて、浴槽の3分の1が座る部分で、足のところに浅い穴がつくられている。
 浴槽に腰掛けた人に、他の人が湯を注ぐというタイプの風呂で、むしろ一種のシャワーみたいなものである。赤ん坊のベビーカーの車を取ったような形を想像してみてください。
この風呂は初期の頃は女性用のものであった。後に公共用の風呂が現れこのバラネイオンの形のものが使われた。

②男性は別のタイプのギムナシウムの風呂を用いていた。ギムナシウムとは教育と体育の施設であった。
 競争のためのトラックとレスリングなどを行う砂で覆われていた競技場、それに付随した水泳用のプールなどからなっていた。
 競技場の周りの建物には小部屋があり、それらは着替えの部屋やオイルを塗る部屋、ボクシングをする部屋、さらに討論する部屋や講義室、図書室などからなっていた。そして水浴するための部屋があった。
 水が引かれ上部から水が出るようになっている。まさにシャワーそのものである。シャワーの起源がここにあったのです。

*古代ローマの浴場
 ギリシャの影響を受けて発達する。バルネアとテルマエといわれる2種類がある。
 バルネアは紀元前5世紀から前1世紀の間に、ギリシャのバラネイオンの形やギムナシウムの風呂から競技場や水浴場の痕跡が消え、オイルや飲食品を売る店が増えたり、床下暖房や壁暖房が始まったり、個人用の浴槽がなくなり大きな共用の浴槽が出現して、ローマ風の浴場バルネアとして完成された形になった。
 
 古代ローマの風呂は基本的には、冷ー暖ー熱ー暖ー冷と徐々に温めていき、また徐々に冷やしていく方法をとっている。人々はまず着替えの部屋に入って裸になり(腰布をつけることもある)、木製のサンダルを履き、油の容器や洗う道具を持って冷気室に入る。
 次に暖温室に入りここで身体を洗ったりオイルをつけたりする。そして高温室に入る。ここは約50度の温度であったと推定されている。この部屋には約40度の湯の入った大きな浴槽がありこれにも浸かる。

 また冷水を入れた水盤が立っていて、この水で浴槽に入る前に身体を洗った。
 高温室では常時浴槽から湯が流れ出て床を濡らし、湿度は80%ほどであったろうといわれている。
 高温室と暖温室の間に熱気浴室があるが、80度ほどの熱さがあり十分に汗をかいたであろうと思われる。その後暖温室に戻り、またオイルをつける。

 我々日本人には風呂上がりにオイルをつけることになじみはないが、乾燥地では必須のことである。暖温室を出て冷気室に戻って熱い身体を冷ます。ここにある冷水の浴槽が後に水泳用の大きなプールに変わるのである。
 
 紀元前1世紀の末に、バルネアから発展したテルマエといわれるものが出現する。
 テルマエのもっとも古いものは古代ローマに建てられたアグリッパ大浴場である。長さ100~120メートル、幅80~100メートルほどの大きさで何度も改修されながら5世紀まで利用され続けた。
 次に紀元後64年に完成したのがアグリッパよりもさらに大きいネロの大浴場である。建築技術も発展しガラスも用いられるようになった。このネロの浴場は以後の浴場の基本モデルになったのである。

 3世紀になって有名なカラカラの大浴場が現れる。この大浴場は12万平方メートルの広さを持ち、一度に1600人が入浴できたといわれている。アレキサンダーの息子の名前カラカラにちなんで名づけられたものである。

 4世紀にはさらに大きなディオクレティアスの大浴場が作られている。これらの浴場では、風呂に入ってくつろぐだけでなくボクシングやボール・ゲーム、レスリング、重量挙げなどのスポーツもでき、劇場や図書館も配置され、さらに周りに多くの飲食店が建てられていた。大ホールが作られ集会がもたれ、政治的な討論なども行われるようになる。

 時の権力者の肖像や神話上の彫刻も飾られ一大アート・センターの趣があった。浴場は単なる風呂から一大文化センターへと変貌したのである。

 古代ローマの大水道は有名だが、1日8500万~3億1700万ガロンの40%は公共の建物や噴水、風呂にまわされていたというから、風呂文化の極地ともいうべき感がある。

2011年10月1日土曜日

風呂にまつわる言葉

風呂にまつわる言葉
■風呂敷
風呂敷は足利時代の大名が、入浴する時に、他の大名の衣服と間違えないようにするため、家紋を染め抜いた布で衣服を包み、湯上がりには、その布の上に座って、身繕いをしたことから、風呂の敷物として、風呂敷と呼ばれるようになった。

■浴衣(ゆかた)
寺院の浴堂では、大勢の人が入浴するため、風紀衛生上よくないという理由で、入浴者は仏典にしたがって、必ず明衣(あかは)という、白布の衣をまとって入浴していたそうです。
その着物を湯帷子(ゆかたびら)と呼んでいたことから、湯帷(ゆかた)となり、浴衣と呼ぶようになった。

■産湯
人生のスタートの清めである沐浴。鵜羽湯(うばゆ)と言われていたようで、お湯の中に消毒のために、高価な香料を入れることもあった。
キリスト教、ヒンズー教、イスラム教でも行われ世界共通の儀式のようです。