中田英寿氏にCNNがインタビュー、世界を旅して日本に戻る
(CNN) 2006年のサッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ大会。日本代表は1次リーグで敗退したものの、チームの顔だった中田英寿氏(当時29歳)のことを、多くの人は「日本が生んだ最も偉大なサッカー選手」だと考えていた。
だが中田氏は言う。「正直なところ、自分の夢ではなかった」
「サッカーばかりやってきて、サッカーの外の世界がどんなものか知らなかった」「世界で今何が起きているのか、世界のために自分に何ができるかを知りたかった」
引退から8年。その答えを探して、中田氏は世界の100カ国近くを旅した。だが答えを見つけたのは意外にも、生まれ故郷の日本だった。日本のマスメディアに追いかけられるのに嫌気が差していて国を離れたが、日本の47都道府県すべてを回る旅を開始した。
「日本について多くの人や友人から聞かれたのに、自分には答えられなかった」と中田氏は言う。日本文化を世界に伝えることを自らの役割と考え、日本酒をプロデュースするなどの活動に力を入れている。
「日本を旅して日本文化を学ぼうと思った。だからこの5年間かけてすべての都道府県を回り、職人や農家、蔵元を訪ね、優れたホテルやレストランとはどんなものかを見極めようとしてきた。友達に教えるためだけに」
中田氏のW杯へのデビューは日本が初出場した1998年のフランス大会だった。当時21歳。「最初はアルゼンチン戦で、非常に難しい試合だった。だが同時に失うものもなかった」と言う。
日本代表は1次リーグで敗退したものの中田氏のプレーは注目を集め、翌シーズンからはイタリアの1部リーグ(セリエA)のペルージャに移籍することになる。
「文化的に全く異なる国だったから、言葉を学ぶのも生活を学ぶのも大変だった」と中田氏は言う。「だがサッカーは変わらない。だからサッカーをやることだけに集中した」
中田氏はイタリアでいくつものクラブを渡り歩いた。そのなかで所属クラブのセリエA優勝やコッパ・イタリア優勝に貢献する活躍をした。
2002年の日韓W杯では、日本代表は国民の期待に応えて1次リーグを1位で通過。「スタジアムの外に出たら、たくさんの人が拍手で迎えてくれた。日本じゅうの人が集まったようだった。とても誇らしかった」と中田氏は言う。
ボルトンという地味な町になかなかなじめず、監督の方針とも対立し、中田氏のサッカーへの情熱は冷めていった。そしてドイツW杯後の現役引退の意思を固めたのだった。
今でも常にサッカー用の靴をスーツケースに入れて旅をしている。中田氏にとってサッカーは、人々と知り合うための手段だ。
「サッカーはすごいと思う。人とのコミュニケーションや、人と人をつなぐ最高の道具だと思う。国や言葉の違いも超える」と中田氏は言う。
サッカーがあれば、スタジアムの外でも人々をつなぐことができる――中田氏はそう語った。2014.05.30 Fri posted
at 17:39 JST